『シテール島への船出』(Taxidi Sta Kithira)
監督 テオ・アンゲロプロス


 かつて社会主義革命の闘士として戦い、ソ連に国外追放された父を持つ映画監督が、ある日、街角で父親を想起させる老人に出会ったことから、父親の三十数年ぶりの帰国の物語が彼のなかで始まる。その物語は彼のイマジネイションのなかで展開されるため、単なる物語としてではなく、優れて詩的で象徴的な、鮮やかな映像として拡がり、父と母そして自分たちの孤独や苦悩、憂鬱さらには絆を、個人的なものとしても、また同時に、より社会的な現代ギリシャの状況として掬い取ることにも極めて効果的なものとして活かされている。

 かつて社会主義の理想のもとに戦った老父は、現社会主義体制のギリシャに帰国しても、その何処にも居場所がなく、現在には同化できず、結局、再び追放される。彼は、あくまで毅然としているが、その孤独は深く厳しい。凛凛しく印象深い姿である。その老父を「あの人はいつも隠れてばかりいるのよ」と言い得る唯一人の人、老母もまた、三十年の空白の後、尚も、今度は同じ過ちを犯すまいとばかりに、ソ連で別に一家を構えたことがあるのを知ってからでも、「そばに行きたい」と呼びかけ、再び国外追放になる夫と運命を共にしようとする。

 一方、次の世代であり、現在の壮年である息子は、老父の再度の国外追放に対して、心情以外に何の助力も果せぬ無力さである。ただ見守っているだけなのである。老父が国外追放に至る前に彼の行動を抑えることもできなかったし、国外追放になってからは救うこともできない、つまり、体制側にも反体制側にもなれない彼の優柔不断さとともに、あくまで弱々しく、老父の強さと対照的である。そして、同時にそれは、老父の世代の戦士の強さと対照的な、次世代のインテリの虚弱さでもある。同世代の妹は、そんな彼の苦悩を前に、その無力さを嘲笑うように目の前で行きずりのセックスをしている。彼女の感情の貧しさ、心の乾きは、これまた、その老母と対照的である。

 結局のところ、愛の島、喜びの島への旅、至福への旅を意味するという「シテール島への船出」とは何なのか。勿論、その答えは、この作品のなかにはない。しかし、老父の世代には、少なくとも船出はあり、シテール島には辿り着かなかったし、船出をしたればこその苦難というものにも見舞われたものの、次の世代においては、船出そのものがなくなっているということは言えそうである。船出すべきか否かはともかく、船出をしたことのある人間のほうが彫りが深く魅力的で、船出しない人間は、どこか色褪せている。

 ところで、テオ・アンゲロプロス監督作品としては、今迄に観た『旅芸人の記録』『アレクサンダー大王』と比べると、いささかスケールの大きさで本作品は劣っている。やはり、アレクサンドロスという一人の映画監督の近親者の物語であり、彼のイマジネイションを追っていくという形からすれば当然のことなのかもしれない。しかし、その設定ゆえに画面構成の奔放さとか詩的抽象性の奥行といった面では、前記二作を超えているように思えるし、また、より人間が表に浮び上がってきているのも面白い。題材を現代にとれば、その分だけ人間というものが、より強く浮び上がってくるということである。




推薦テクスト:「Silence + Light」より
http://www.tricolore0321.jp/Silence+Light/cinema/review/siteeru.htm
by ヤマ

'86. 3.16. 六本木シネヴィヴァン



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