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『黄昏に燃えて』(Iron Weed) | |||||
監督 ヘクトール・バベンコ | |||||
原作者か脚本家かあるいは監督か、何れにしてもそのうちの誰かが、宮沢賢治の世界に触れた経験があるに違いない。冒頭に『銀河鉄道の夜』を連想させるイメージが現われるが、それは、ただその場面だけに留まらず全体を通じていて、しかもそのニュアンスには独自のものを残している。この基本的イメージにより、主人公フランシス(ジャック・ニコルソン)が、生よりも死に馴染んだ感覚で生きていることが判かるし、彼の一見、無為で荒んだ人生の物語に、ある種の透明感と切なさとが与えられるのである。 フランシスのように能力も可能性もありながら、ある時をきっかけに積極的に生きることを捨て、怠惰で過酷なルンペン暮しに堕ちぶれ、死んだようにしか生きられなくなっている人生を描こうとする時、多くの場合、その原因と目される過去の受傷体験とそのことへの本人のこだわりを描くことで今を説明しようとする。フランシスにしても、生後間もない息子を床に落して死なせてしまったことがきっかけとなって22年前に家を出ているのだし、それ以外にも、今も幻影となって彼を苦しめる、彼が死なせてしまった人物たちがいる。 しかし、この作品には、そういった過去の事実によって、彼の現在を直接説明しようとする視点がほとんどない。それが物語を因果律や構図的に捉える者には、説明不足ないしは説得力の弱さとして映るかもしれないが、現在とは、過去のそういう事実を原因とする結果として説明し切れるものではない。そこに単純な構図を押しはめて説得しようとすると、判りやすさの代償に大きな嘘を孕んだ平凡な作品になったはずである。 彼の現在において支配的なものは、そういう過去の事実そのものではなく、それを契機に陥った死への身近な感覚と生への虚無感のほうであり、彼をそういう感覚へと向かわせたものは、彼の事実に対する認識力と自身の認識力への自負なのである。フランシスが自身の認識力に強い自負を抱いていた人間であることは、相棒ルディの死に際して銀河の本当にある場所を知っていた男という言葉を捧げたり、死んだヘレン(メリル・ストリープ) に清らかな魂という言葉でもって哀悼するところなどにも窺えるが、何よりも彼がそういう人間でなかったら、辛い事実には認識よりも風化という態度で臨むのが人間の常なのだから、あのような人生を歩むはずがないのである。 そして、彼がそういう人間であればこそ、妻のアンが次男を死なせた事件の顛末を誰にも喋っていなかったことを長男との話のなかで知った時、大きなショックと感慨を覚えるのである。それは、その事実そのものよりも、そのことが彼の想像すなわち認識力の枠の外のものだったことによるのであろう。この無為で過酷な、自身としてもネガティヴにしか認められない人生を歩ませている最大の要因は、彼の自負するところの認識力にこそあるのである。それが、今の彼を招きもし、また過酷さのなかで支えてもいるのである。その認識力の枠を越える事実というのは、その意味からも確かめずにはいられないことなのである。フランシスは、22年ぶりにアンを我が家を訪ねる。そして、自らの認識の卑小さを知る。しかし、そこには、喪失感よりも妻ひいては人間に対する感動があったようだ。彼が人生をやり直すことができるとしたらここにしか契機はない。だが、今迄こだわってきた認識という桎梏から仮に解放されたとしても、それによって22年間培ってきてしまった死に馴染む感覚からまで解放されるわけではないのである。彼は、再びルンペン暮しに帰っていかざるを得ない。そして、自分 について寡黙だった彼が、彼らなら解ってくれるかもしれないという幽かな期待でもって、ルンペン仲間にその感慨について語り始める。だが、まともに相手をされなかった時、孤独感のなかで自らの感傷を自嘲していたに違いない。ヘレンの存在とは、おそらく彼のそういう感覚を感じ取り、彼に同化するなかで、彼とともに人生を堕ちていった女性ということなのであろう。 しかし、この作品が描こうとしたのは、そういった彼の人生の顛末やその説明ではない。それらの部分は、観客の想像に委ね、映画は、ひたすら今の彼の有様と今の彼の感覚とを描写していくのである。従って、多くの者の頭による安易な理解は得られにくいかもしれないが、共感する者にとっては、作り事とは受け取れないリアリティがあるという気がする。それは、フランシスの心象の部分には、いわゆる作劇的嘘がほとんどないからである。そういう意味では、痛切で辛く厳しい作品である。 それにしても、この後のフランシスの人生は、どうなっていくのであろうか。彼は、家を出た時からルンペン暮しだったわけではない。死んだようにしか生きられない感覚というものが、22年の歳月の間に、彼に生から遠ざかるほうへの選択しかさせなかったなかでルンペン暮しに至ったのである。この感覚は、一度身につけてしまった以上は逃れようもないものであろうか。あるいは、22年を経て家族と触れて受けた感動というものが、直ちに家族の許に戻らせるものではないにしても、次第に彼に生の力と意欲を与え得るものになるのであろうか。また、ヘレンの死は、彼にいかなる痕跡を残すのであろうか。彼女もまた彼を苦しめる幻影の人物たちに加わるのか、あるいは、その存在がフランシスにとって幻影の人物たちとは明らかに異なっていたように、それには加わらずに、むしろ、加わってもいいような死者が加わらないことで、他の幻影たちをも消え去らせてしまうことすら起きるのか。いずれにしても難しいところである。結局、現在が過去の帰結として説明し切れないように、未来は、現在によって見通せはしないのである。だからこそ、フランシスが、過酷な人生の僅かな支えとして きた認識力への自負すら失って最早ヘレンの後を追うしかないのか、その引替に得た感動を手掛かりに再生できるのかというところには、作り手も安易な解答などを出したりしないのである。 | |||||
by ヤマ | |||||
'88. 7.20. テアトル土電 | |||||
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