『マリリンとアインシュタイン』(Insignificance)
監督 ニコラス・ローグ


 ニコラス・ローグにとって、今世紀最大の重要人物は、男性ではアインシュタイン、女性ではマリリン・モンローなのだろう。ともに、その才を天賦のものといってしまえば、それまでなのだが、彼の業績のスケールの大きさと画期的である度合は、少々頭が良いだとか、地道な研究の成果だとかいう人間的レベルでは図り難いほどに超人的だし、彼女のイノセントで且つ妖艶な魅力というのも、生身の女性とは信じ難いほど、そのバランスと対照が絶妙でこれまた超人的である。ニコラス・ローグとしては、そういうアインシュタインとマリリンに対する自分のイメージを実際のエピソードを借りながら、無記名で展開することによって自由奔放に映像化し、その二人の出会いを創造してみたかったのではなかろうか。主たる登場人物四人は、いずれも著名な人物である。しかし、ジョー・ディマジオは、マリリンに振り回されるだけで、その引立て役に過ぎない凡人だし、マッカーシーは、むしろそれ以下としてアインシュタインと対照されている。それぞれの会話が全く通わないのに比べ、マリリンとアインシュタインの次第に打ち解けていく束の間の交流の何と微笑ましく暖かいことか。二人は、この時だけ寛ぎを見せる。アインシュタインに対して、選りによって特殊相対性理論を説明するマリリンは、実に生き生きとしているし、また、そんなマリリンに向けるアインシュタインの眼差しは、こよなく優しい。(テレサ・ラッセルとマイケル・エミルの表情が素晴らしい。)

 住む世界も与えられた才も違う二人なのに、並みの人間から掛け離れているという意味では、最も似た境遇にあるともいえる。それゆえに通ずるものがあったのだろうか。あるいは、孤児院育ちないしはユダヤ人というともに帰属母体の不全な生い立ちによる孤独感、さらには、セックス・シンボルとしての愛玩物にされていることないしは原爆の生みの親であることによる現在の痛み・・・。そうしたものを抱えた者同志の共感ということもあるのかもしれない。少年期に良い子だといわれて育ったマッカーシーや少年期から野球に才を見せていたディマジオとは、やはり対照的である。それにしても、事実を借りながらも自身の思い入れによって再構築した、その虚実のバランスの巧みさはどうだろう。しかも、各人の曳きずっている象徴的な過去の記憶や幻想をうまく挿入することで、人物造型に深みを与えつつ、その人物の今を納得できるものとしている。そこには、人間を連続性のなかで捉える確かな眼があり、それゆえに、マリリンとアインシュタインとを結びつけるという奇抜な発想のこの作品を単なる有名人のエピソードものに終らせないし、また、思い入れを描きながらも、マリリンとアインシュタインへのオマージュということだけに留めない。それでいて、ラストの「バーイ。」で締め括るローグらしからぬ軽やかさは、彼らへの捧げ物というにふさわしい仕上りであり、成功している。
by ヤマ

’87. 2.27. 名画座



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