『惑星ソラリス』(Солярис)
監督 アンドレイ・タルコフスキー


 オープニングは、透明な水の流れのなかでゆらめく水草とそれに続く池水のシーンである。それらが無声のなかでスロウなカメラ・ワークとともに重々しく始まる。いかにもタルコフスキー的なものを象徴した導入部である。タルコフスキーが、その作品のなかで志向している幻想的なイメージや幻覚をもたらす感覚への憧憬とは対象的に、気質的には癲癇気質であることは、作品の印象から受ける粘着性と論理性からも窺えるが、分裂気質の典型とも言えるキューブリックと比較すると一層明らかな気がする。タルコフスキーの作品のイメージや感覚は、幻想的ではあっても必ずそこに作り手からの意味づけがなされているし、作品自体がテーマ性を帯びていて、それについての作者の主張を興ざめなほどに明確に語りはしても、イメージや感覚自体のシャープさにドキっとさせられるということは意外なほどに少ない。現実を描いていても何処か超現実的で、驚くべきほどの感覚のシャープさとイメージの奔放な飛躍性を持ち、作品的には明確でありながら、それをテーマ的に捉えようとすることがほとんど意味を持たないようなキューブリックとは対照的である。しかし、そのことは互いの優劣を直ちに示すこととは全くの別物で、単に気質的な違いを示しているというべきである。

 そのようなタルコフスキーであるから、そのこだわるところの水にしても、ただ単に映像の光と影の最も妖しい演出者としてのみこだわっているのではなく、生命の根源である海に繋るものとしての水という意味づけが明確である。そうであればこそ、人類の危機とその救済を何の衒いもなく、真正面から訴える彼がこの作品で、プロローグに現れた池水をエピローグにおいて氷の張った状態で再登場させたことは、ノスタルジアサクリファイスのほうを先に観た者からすると、かなり意外な感じを伴った印象を残す。十余年前には、彼もまた絶望を表現していたのかと思わせるのである。しかし、中盤での「彼は恥のために死んだのだ。」とか「我々こそが人類愛というものを理解する最初の人間になるのかもしれない。」といったクリスの科白からすれば、妙に腑に落ちないと思っていると、間もなく、天井から落ちてくるお湯のイメージが現れて納得させられる。この湯のイメージには必然性がある。生命の象徴である水を、氷という形で登場させた以上、それを溶かすものとしての湯のイメージが出てこないことには、彼の作品の一貫性が損なわれるからである。一例を挙げるならば、こういう形での論理性に、タルコフスキーの作品は、色濃く支配されているということである。

 それにしても、この作品のなかで提起されている、テーマというよりもタルコフスキー自身の関心とも言うべき、幻覚と現実は、何によって、また何処から区別されるものなのか。とか、感情も理性も記憶も有し、感触すら人間と全く違わない、人格を伴った存在でありながら、明らかに人間とは異なる存在を現出させることによる人間であることを決定づけるものは何なのであろうか。といった問題は、実に興味深いところである。しかし、そのことが関心や提起に留まって、それ以上の踏み込みが見られないままにラスト・シーンの創世記さながらの宗教的とも言えるほどの思い込みの世界の表出に至ってしまうのは、少し残念ではある。もっとも、だからこそまさにタルコフスキー作品であるとも言えるわけで、その点では作品的に首尾一貫していて、いささかの破綻もない。そういう彼の世界の自己表現という面からは、かなり優れた佳品としてこの作品は、記憶されるべきである。
by ヤマ

'88. 4.20. 県民文化ホール・グリーン



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