『サクリファイス』(Offret Sacrificatio)
監督 アンドレイ・タルコフスキー


 前作ノスタルジアのあの祈りにも似た敬虔な美しさと感動からすれば、残念ながら、いささか卑小な作品だといわざるを得ない。この作品にあるサクリファイス的なイメージは、既に『ノスタルジア』のなかで見事に描かれていたという以上に、そのイメージそのものは、タイトルとは裏腹に、前作のほうが遥かにサクリファイス的であった。作品『サクリファイス』に『ノスタルジア』にはなかった何かがあるとするならば、それは、具体的なものとしての核の不安ということだけである。もし仮に、そのことが前作において言い残されているというのがモチーフとなって『サクリファイス』が撮られたのならば、前作に比しての本作品の在り様も頷けるというところである。

 天に向かって頼りなくも懸命に手を延ばしているかのような木のイメージや地鳴りとともに身震いを続け落下する大きな牛乳瓶の「覆水盆に還らず」のイメージあるいは黒沢のの城の炎上よりも遥かに美しいラストの炎上シーンなど、流石はタルコフスキーだとは思うのだが、それらがどうしても断片的であるような印象が拭えない。イメージを繋いで、映像作品としてより豊かな全体像を獲得するだけの脚本力の展開がないからである。改めて『ノスタルジア』での共同脚本者であるトニーノ・グエッラの功績が思い出される。

 白夜のなかで神と対決し、そして約束をするという部分は、それらのイメージを繋ぐうえで、この作品において最も重要なところである。それなのに、そこがそれまでのカラーの色調から途端にいかにも思わせ振りに白夜的なモノクロに近い色調で、しかも夢現のなかのこととして描かれ、更には総てに片を付けるのがマリアという女と寝ることだというのでは、『ノスタルジア』の主人公がドメニコと出会う以前の影の基調と以後の光の基調という象徴的な画調の対照や、変調をきたしたベートーベンの喜びの歌のなかで延々と続けられる演説ないし蝋燭を風にかざして恐る恐る温泉を渡るという実際の行為として描かれることに比べると、表現としては、やはり安直だという気がするし、数段の開きがあると思われても止むを得まい。

 結果として、折角の美しきメッセージも何処か独善的な思い込みの域を越え切れず、感動には至らない。とは言え、タルコフスキーにしても『ノスタルジア』とばかり比較されるのは酷というものだろう。おそらく、あれは、彼の作品のなかでも群を抜いた傑作だったのであろうから。



推薦テクスト:「雲の上を真夜中が通る」より
http://mina821.hatenablog.com/entry/20121011/1349946832
by ヤマ

'88. 1.17. 名画座



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