『ノスタルジア』(Nostalghia)
監督 アンドレイ・タルコフスキー


 「詩は、翻訳できない」という詩人が「自分だけの美しさなんてうんざりだ」と思う時、彼は何を求めるのであろうか。主人公である詩人アンドレイ・ゴルチャコフが音楽家サスノフスキーの放浪を研究することになったのも、そこのところがあろう。音楽に翻訳は、必要ない。

 詩人の息子タルコフスキーが彼独特の詩的宇宙の映像表現を果たす上で重要な役割を担っているのは、光と影である。それゆえ彼は、その最も妖しい演出者としての水、炎、鏡といったものに固執する。それらは、光と影の演出者であると同時に、彼の詩的宇宙の惑星・恒星そのものでもある。僕らは、タルコフスキーの映像によって影にも色があることを教えられる。しかし、そういう意味での映像の魅力はともかく、従来の彼の作品(とはいえ観たのは、『鏡』『ストーカー』だけなのだが、)の余りにも自閉的な感覚には、いささかうんざりしていた。だが、そのタルコフスキーがこの作品では、自身と同名のアンドレイに「自分だけの美しさなんてうんざりだ」と言わしめている。詩と違って映像は、音楽同様、翻訳の必要のない表現手段であることに気づいたというべきであろう。当然のこととして『ノスタルジア』は、いくらか痕跡はあるにしても、従来の自閉的な作品群とは趣を異にしている。

 物語の前段に教会が出て来て、願い事を叶えようと神の前に跪き、祈りを捧げるのは女ばかりだと教会の番人が嘆く。そういった素朴な信仰心は、どちらかというと女性的特質なのかもしれない。しかし、アンドレイの通訳として共に旅して来たエウジェニアは、祈りを捧げる女達に比べてインテリであるためか、そういった素朴な信仰心が持てなくなっている。時代の知性は、人間の精神世界から神の存在を奪いつつあるということだ。だから、跪こうとしても跪けない。素朴な信仰心を失っているエウジェニアでも、次第に惹かれて来たアンドレイに対する思いでは、まだかなり素朴な感情を有している。しかし、肉体的には心臓病により、精神的には詩の書けなくなった(であろう)詩人の生命感の稀薄さでは、とても彼女の素朴な感情ないし生命感を受け入れることができない。エウジェニアは、アンドレイの部屋を飛び出し、アンドレイは、鼻血を出す。彼女は、彼の部屋を飛び出した時、跪くような姿勢になりかけて、パッと駆け出し、転ぶ。観客には、教会では跪けなかった彼女が素朴な感情をもった今、きっと跪くんだと思わせておいて、その裏をかく訳である。こんな肩透しは、たいしたこ とではないのだが、そんなふうな観る側への意識の仕方は、嘗ての自閉症的なタルコフスキーにはなかったものである。ここのところまで、つまりアンドレイの生命感の稀薄さと神を失った現代を著した前段における映像の基調は、光と影で言うならば、影であり、これ以降すなわち温泉以降は、光になる。

 温泉以降とは、ドメニコの登場である。ドメニコは、世界が終末を迎えていると信じて7年間も家族ぐるみで村はずれのあばら屋に閉じ篭り、村人から狂人と呼ばれている男である。彼は、アンドレイに嘗て自分が家族だけを守ろうと閉じ篭ったことを利己的であったと語る。そして、全人類を救うために蝋燭に火をともして温泉を渡らなければならないのだが、村人が自分を狂人だといって、それをさせてくれないと嘆く。「自分だけの美しさなんてうんざりだ」と思うアンドレイは、全人類を救うと口走るドメニコに他の誰からも得られなかった接点を覚える。そして、詩を失くし、健康を失くし、ロシアに残して来た妻ともエウジェニアとも接点を失くして、故郷での幼時の郷愁しか残っていないアンドレイは、ドメニコがローマに出て、三日間喋り通しの大演説を行なっていると知って、彼に託された蝋燭に火をともし、温泉を渡ろうとする。慎重に懸命に、風に吹き消されて失敗を繰り返しながら、何度目かにやっと到達する。全編通じてアンドレイが唯一生命感を感じさせる場面である。生命感が稀薄だったアンドレイがドメニコとの接点によって初めて生命感を取り戻すのである。しかし、それ は丁度燃え尽きる前の蝋燭の炎だったかの如く、彼は到達した後、力尽きたように死んでしまう。ドメニコもまた「人類の最大の不幸は、偉大なるものの存在を失ったことだ」と叫び、テープレコーダーの変調に歪むベートーヴェンの『喜びの歌』と共に焼身自殺を遂げる。

 前段の素朴な信仰に対して、後段の二人の男の死は、素朴な信仰では成し得ない、苦悩の末の殉教のような印象を残して行く。素朴な信仰を失いつつある現代において、人類が謙虚さを取り戻すためには、苦悩に満ちた殉死とも言うべき幾多の犠牲者が必要とされるのであろうか。そして、果たして取り戻し得るのであろうか。ラスト、アンドレイのノスタルジックな幻覚風景の上に、巨大な石造りの教会が建っている映像が映り、その教会の中の風景に雪が降り積もって行く。風景は同じなのに、その中の人物は、いつの間にか、彼が幻覚の中に見た人々ではなく、唯独りの男(アンドレイか)が腰をおろしているだけになっているのである。時代の苦悩に強烈に自己同一した人の心象風景とは、かくも孤独なものなのであろうか。実に印象深い映像である。




推薦テクスト:「Silence + Light」より
https://silencelight.com/?p=929
by ヤマ

'85.12. 5. 名画座



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