『天山回廊』(海市蜃楼)
監督 徐 小明


 かつてのアメリカ映画の醍醐味は、その伸びやかな躍動感に溢れた娯楽性にあったが、それはかのアメリカン・ドリームの神話と同様、社会の成熟に伴う停滞状況のなかで失われ、今や取り戻すことのできないものとなっている。スピルバーグが『インディ・ジョーンズ』のシリーズで、そういったシンプルな娯楽性の復活と追求に精出してはみても、それなりのものはできるものの、かつてほどの自然な伸びやかさと躍動感には到らない。制作意図そのものが、既にかなり作為的で、シンプルな娯楽性を求めながらも、映画そのものは結構凝った作りであるうえにSFXの先端技術が駆使されていて、所詮は熟成した社会からのノスタルジックな思い入れの所産としての側面が強い。そういうなかで『天山回廊』のように素朴で、映画の持つ娯楽性のある種の原型そのままのような作品に出会うと新鮮なショックがある。ストーリーにしても、人物造形にしても、そこに描かれる恋も友情も、さらにはカメラワークや演出も、大胆にもなどという意図を感じさせることもない自然な単純さである。それは熟成した社会のなかでは子供たちですら既に失いかけていると言ってもいいほどのも のであるが、その単純さが幼稚さに繋がるのではなく、伸びやかな躍動感とともに感じられるのは、中国が未だ明らかに発展段階の途上にある国であればこそだろう。
 それにしても、この映画のアクションの凄まじさはどうだろう。まさに壮絶なるスタントである。娯楽映画の見せ場というものが特撮技術や仕掛けのようなメカニカルで人工的なものに、その主流が移ってきて、肉体を見せることにおいてすらそういう傾向にあるなかで、身体を張ったアクションの素朴なインパクトは、却って強烈である。そういったところで支持されてきたのが一連の香港映画であったのだが、どちらかというと単純さが幼稚さに繋がる傾向にあり、またアクションもサーカス的な見世物としての側面が強かった。『天山回廊』がそういったことに終わらなかったのは、天山という背景の自然の壮大さとともにもたらされるスケールの大きさと何よりもアクションの捉え方の違いである。結果としてアクションシーンが最も印象的であったにしろ、そのアクションシーンをアクションとして見せるがために作られたドラマのなかで見るのか、ドラマのなかのアクションとして見るのかの違いは大きい。一連の香港映画には、どうしても前者の印象が拭えないし、『天山回廊』は後者としてみることができたということである。さらにはアクションが主人公をフューチャーするためのものとし て、比重の偏った形ではなく、あくまで映画全体の面白さのためにあるということも大きな違いであろう。そのために必要なのは、一人の飛び抜けたアクション・スターの存在ではなく、その層の厚さということになるのだが、他のさまざまな分野においてもそうであるように、中国の人材の豊富さというものには、計り知れないところがある。桁外れの人口の違いということだけで済ませることができるのだろうか。
by ヤマ

'88. 1.28. 東宝2



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