『夢みるように眠りたい』
監督 林 海象


 時期を同じくして観たウッディ・アレンのカイロの紫のバラが観る側の持つ映画への思い入れと熱情を描いているとしたら、この作品は作り手の持つそれを描いていると言える。ともに映画そのものに向けたオマージュであり、しかも今の映画を語るなかではそれを為し得ず、かつての映画が持っていた煌きへのノスタルジーとして描いている点でも共通している。そういったなかで既に監督としても役者としても、つまり映画人としてのキャリアの長いウッディ・アレンが作る側のではなく観る側のそれを描き、キャリアのない新人監督が作る側のそれを描いていることには、観る側を意識することと作る側を意識することというそれぞれの視座の指向性が如実に現われていて興味深い。

 こういった所にも新人監督らしい初々しさが溢れている。しかし、それでいて見せるということにおいては芸達者である。作品のなかで現出される昭和初期の風物はなかなかの観物だが、それ以上に、未完のフィルムにおいて描かれるストーリーと探偵が巻き込まれていく誘拐事件とが当初持っていた距離を次第に縮め、交錯し、遂には混然一体となっていく展開の妙味が魅力的である。初めから未完のフィルムが露骨に本編そのものの顛末を語ってしまってはお話にならないし、また突如として実はかくかくしかじかで…といった形で謎解きをされてもつまらない。その点、この作品は実に微妙にフィルムと事件が近づいていく。しかも、小さな謎解きの背後に残る大きな謎解きとして、フィルムのなかに現われるサイレント映画らしからぬ手の映ったカットとか櫛の模様とか様々なヒントを与え、伏線を効かせつつ、あっさりとは解けない謎を残したまま進行することにも成功している。なかなか洒落た遊び心である。そして、それら映像に観客の視線を惹きつけるべく、肉声以外の音声しか聴覚には与えず、科白は字幕で最小限に切りつめられた形で展開される。饒舌気味の昨今の映画のなかにあって、映像に観客の注意を殊更に引きつけておいて、そのなかでヒントを与えつつ謎解きを投げかける姿勢は挑戦的であり、勇気がある。この姿勢の与える好感が、今ブームになりかけている昭和初期の風物の夥しい陳列から、あざといスノビズムを払拭しているのである。個々の登場人物における謎の解けた時点というものをさりげなく明確にしている点にしても、描くべきところをきちんと描き、妙なごまかしで煙に巻くといったことをしていないところも潔い。

 そういう意味で実によくできた映画なのである。しかもお葬式のように只よくできた映画、凝った映画として感心させるだけでなく、そのなかから映画に対する限りない愛情が伝わってくる。月島桜の夢見るように眠るがごとく迎えた安らかな死は、ちょうど本編の展開で未完のフィルムと探偵の巻き込まれた事件が混然一体になったラストにおいて至ったごとく、虚構ないしは夢(フィルム)と現実(事件の顛末)との混然一体のなかにある安らかさであり、その夢現の陶酔感こそは、作り手にも観客にも共通の映画の醍醐味でもある。そして、それらの感情を『カイロの紫のバラ』のように捻ったりせず、また話としてはビリー・ワイルダーのサンセット大通りにも似たものを決して老女優の妄執とはしないで、美しく余韻を残した形で終らせた素直さに林海象の若々しい好もしさが現われている。
by ヤマ

'86. 6.13. 渋谷シネセゾン



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>