『お葬式』
監督 伊丹 十三


 今や現代人の生活においてあらゆる儀式が形骸化して行っているなかで、かろうじてその重みを人々が否定し切れないでいるのが、葬式である。儀式の形骸化と儀式の威儀との微妙な絡み合いが、何らかの形で葬式に関わる人々のなかに現われ、そこに自ら滑稽さが窺われる。全く形骸化しているわけではないから、形式的に処理するだけにはいかないものの、威儀の失われかけているものをそれらしく現出しようというのだから、スムースに整然と行なわれるはずもないのである。思えば、現代において儀式が儀式としての威儀を損なわずに保っているのは、ヤクザの世界(例えば襲名披露など)だけではなかろうか。

 伊丹十三は、儀式の持つそういう滑稽さとそれに振り回される人間の滑稽さをいささかカリカチュアライズさせながら、実に丹念に拾い上げ、再現してくれる。 "見者" ないしは "観察者" としての彼の面目躍如といったところである。特にその観察者としての視点を観客に強くアピールしているのがカメラである。時折、暴走もあるが、『お葬式』のカメラの効果は、先ず何よりもそのアングルが観客を決して葬式の参加者にはさせず、観察者の立場に置くところにある。表現したいものを伝えるうえで、最も効果的な役割を果たしたと言えよう。そういう意味では、映像メディアの利点を上手に使っているわけで、その点ではよく出来た映画である。

 しかし、「よく出来た映画、必ずしも名作とは言えず」ということを考えさせる作品でもある。よく出来ているのに何ゆえ名作にならないかというのは、結局インパクトの問題である。感情にであれ、叙情にであれ、また知性にであれ、社会意識にであれ、インパクトの強いものでなければ名作とは言えない。伊丹十三は、そういった名作を撮るには、小利口で冷静過ぎる。思い入れがないのである。だから、よく出来た映画は撮れる才人ではあっても、名作は撮れないように思う。

 全体的によく出来ているなかで時折暴走が見られるのは、カメラだけではない。彼の表現意図が前述の滑稽さにあるとすれば、スタジオでコードに足を取られて宮本信子が倒れるのはまだしも、雨のなか飛ばす車でのサンドイッチのやり取りやら、高瀬春菜扮する愛人とのシークェンスは、滑稽ではあっても、葬式という儀式との関係では却って焦点がぼけるし、滑稽さの底が浅い。カットしたほうがいいと思う。これとは逆に作品に深みを与えているのが、宮本信子が丸太のブランコに独り乗っているシーンである。大半の、死を痛みないしは喪失感として受け取っていない人間達によって演出される葬式という儀式の中で、わずかに二人だけその死を痛みとしている人間がいて(それが宮本信子と菅井きんである)、それなのに儀式のなかでは、そのことが全く顧られないのである。あの場面は、そういうことを示す意味で効果的であり、ラストと並んでたった二ケ所、滑稽で慌ただしいトーンとかけ離れているシーンであった。この作品における宮本信子のけっして軽さではないところの軽やかさが、実にかっこよく魅力的である。
by ヤマ

'85. 2.28. 東宝宝塚



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