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米澤前田慶次の会

  
  
  

 直江兼続
 

秀吉が惚れ、家康が恐れた男

「愛」に生き、「義」を貫いた苛烈な生き様


 2009年NHK大河ドラマ「天地人」に描かれる、戦国末期に越後の国で異才を発揮し、並み居る群雄の耳目を引いた智将。
上杉家の忠臣・名宰相として敏腕を振るいました。

直江兼続甲冑       直江兼続


生涯の主 上杉景勝との出会い

 直江兼続(幼名:樋口与六)は永禄3年(1560年)、越後上田の庄(現新潟県南魚沼郡)で坂戸城主長尾政景の家臣であった樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれます。
坂戸城夫人にして上杉輝虎(後に謙信)の姉・綾(後の仙桃院)は息子喜平次(後の景勝)の小姓として登用し、弱冠5歳にして家臣となり、雲洞庵にて武芸の鍛錬に励み、武士としての肉体と精神を養っていくのです。

上杉家の相続 直江家の相続

 天正6年(1578年)、上杉謙信が他界。その跡目を争ったのが景勝ともう1人の養子である景虎です。戦は御館の乱といわれ、このとき19歳の兼続がその知才を発揮し戦を制します。これにより上杉景勝が家督を相続します。
一方、景勝の側近直江信綱が不慮の事故で他界すると、兼続は景勝の命で、信綱の妻お船の婿養子となり、跡取りのいない直江家を継いだのです。

豊臣政権と上杉

 上杉景勝は、豊臣秀吉と信頼関係を築き、小田原征伐、佐渡征伐、朝鮮出兵などの功績により5大老にまで上り詰めます。この陰には兼続の軍師としての活躍が見られます。景勝が秀吉より越後92万石から会津120万石に加増されると、兼続にも出羽米沢30万石の所領を与えられています。

徳川の台頭

 慶長3年(1598年)秀吉が没すると、次の天下人として徳川家康が台頭してきます。このとき、豊臣政権の権力掌握を確実なものにしようと徳川は無理難題を押し付けてきます。これに上杉家は敢然と受けて立ち、兼続は徳川を批判した書状をもって応じ、それに怒った家康が会津征伐に決したとされています。
 慶長5年(1600年)会津征伐に動き始めた家康でしたが、同年7月突如兵を挙げた石田三成に対して、慌てて兵を西に向かわせます。
石田三成は秀吉の家臣であり、兼続とは古き友であり、事前に二人にの間で家康の東西から挟み撃ちするという計画があったのではないかとも言われています。
西に向かった徳川軍を追撃すべきと兼続は景勝に進言しますが、主君景勝は「謙信公の義の教えをもってすれば、上杉家に退却する敵を追い打ちする戦法はない」と追撃を行ないませんでした。兼続自身は、徳川を討つ事により天下を手中にと考えておったのかもしれませんが、このときは景勝の決断が後の上杉家を救うこととなります。

天下分け目の関ヶ原

 石田三成が率いる西軍と、徳川家康率いる東軍が関ヶ原で激突します。
上杉軍は関ヶ原の戦いの間、徳川に肩入れをしていた伊達軍や最上軍と戦い、兼続も軍師としてその才気を発揮しますが、関ヶ原での壮絶な戦いは徳川率いる東軍が勝利し、友石田三成率いる西軍の敗北により上杉は窮地に立たされました。このころ上杉景勝・直江兼続主従に仕えおったのが前田慶次でありました。
慶次は、北の関ヶ原とも呼ばれる激戦・長谷堂の合戦において兼続率いる殿軍加わり見事な槍さばきで撤退戦を演じました。

関ヶ原の戦後処理

 兼続は、家康の側近本田正信との交渉の末、その見事な戦略で上杉家存続を許されました。会津征伐の際、景勝が家康軍を追撃をしなかったことに対して恩赦だったのではないかとも言われています。
 慶長6年(1601年)、景勝は兼続と共に上洛して家康に謝罪します。許されはしたものの、会津120万石から出羽米沢30万石への大減封となったのです。

直江兼続と前田慶次

 上杉家に仕えた前田慶次は、直江兼続との間で言葉なくとも意志のつながる盟友であったとの謂われがあります。慶次所縁の米沢堂森の無苦庵には、たびたび兼続も顔を出し酒を酌み交わしたとか。
 堂森秋月の図には、二人の男が生きた時代の風を感じることができる気がします。

 
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