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慶次と米沢

前田慶次の出生    慶次の名前   
慶次と織田信長    慶次と前田利家
慶次の出奔      直江兼続との出会い〜米沢〜
長谷堂の合戦     慶次 安息の日々


前田慶次の出生
 
 前田慶次(以下「慶次」)は旧海東郡荒子(現在の名古屋市中川区荒子)という村で生まれます。出生年については定かではなく、おおよそ天文10年(1541年)頃と考えられています。
金沢系(前田家)の伝承「加賀藩史料」では天文2年(1533年)、米系(上杉家)の伝承「米沢人国記」では天文11年(1542年)とされています。
 慶次は尾張織田家に属する土豪、荒子城主前田利久の養子。利久は滝川一益の甥益重の未亡人を後妻に入れ、慶次はその連れ子であったと言われています。
慶次の父は織田信長の家臣滝川左近将監一益の従兄弟儀太夫益氏であり、慶次はその庶子でありました。母が前田利家の兄の蔵人利久と結婚したので養子となり、利久の弟の五郎兵衛安勝の娘と配し、前田の姓を名乗ったとされます。そして義父利久とともに織田信長に仕えました。

慶次の名前
 
 幼名は宗兵衛。
 諱(いみな:前田慶次郎○○)はいくつもあり、利益・利太・利大・利卓・利治・利貞など、記録によって様々であり、時期によって使い分けていたようです。
また、京都に暮らし上杉家に仕えるまでは「穀蔵院飄戸斎(こくぞういんひょっとさい」と名乗ったようです。

慶次と織田信長

 慶次の義父利久は、尾張荒子城主前田利春の長子であり、利春が没すると跡を継いで荒子城主となりました。慶次は利久の姪と結婚し、順調に行けば利久の跡目を継いで荒子城主となるはずであったのですが、織田信長はその家督相続を許さず、利久の弟である利家に荒子前田家の家督を譲るよう命じたのです。このとき信長は、慶次を前田家の直系ではないよそ者として見ており、直系である利家に継がせるのが道理であると考えたようであります。この理屈は父方血統を重んじる武家社会では正論とも言えるでしょう。また、利家は信長と共に周囲から「うつけ者」と評されるほど、傍若無人な行動を共にしていたことも一因と言えるかもしれません。
これにより利久は家督を利家に譲ったわけですが、その後の利久と慶次の足取りは幾つか伝えられています。
初めに、母方の一族である滝川一益の元に身を寄せ、織田軍の一員として各地を転戦していたという説です。もし引き続き利家の元にいたとしたなら、利家が能登の知行地を与えられた.天正9年に、彼から土地を与えられてもよいはずと考えられ、与えられることがなかったために滝川家にいたのではないかと考察されるためです。
次に、地縁の深い荒子の地にとどまり前田家の寄親であった林秀貞の元に身を寄せたという説です。
また、「米沢人国記」では永禄10年(1567年)から天正10年(1582年)まで、慶次は京都の一隅にあって著名な公家や文化人と交流して、和漢古今の書と親しみ、連歌や王朝文学、茶の湯などに通じたとも記されております。
連歌は紹巴(じょうは)に学び茶道は千利休の七哲の1人である伊勢松阪城主織部正重然に皆伝を受けたとも伝えられます。
連歌会での慶次の発句や「前田慶次道中日記」の記述に見られる確かな古典的教養があることも含め、そうした時期があったと推定されるのです。
武術については弓馬はもちろん十八般に通じていたとされます。熱田神宮には、天正9年6月に荒子の住人前田慶二郎が「末口」と銘のある太刀を奉納したという記録があり、その刀は今でも神宮の宝物館に所蔵されています。このことから、利久と慶次は城を出てからも荒子住んでいた時期があったのではないかと考えられるのでしょう。

慶次と前田利家

 天正10年(1582年)天下人への道を歩みつづけた織田信長は明智光秀の謀反によって倒れます(本能寺の変)。このとき慶次は滝川一益に属して関東にいたという伝承が、一益の与力につけられていた松代真田家に残っています。
 この後、羽柴秀吉により明智は倒され賤ヶ岳の戦いで柴田勝家をも倒しました。前田利家はそれまで柴田勝家の与力であったのですが、後に秀吉の説得に応じて加賀征伐の先人を務めることになりました。その報酬もあって利家は能登の旧領に加えて新たに加賀二郡を加増されたのです。利久と慶次は利家を頼ることになり、利久7千石を与えられるとともにうち5千石を慶次に分け与えております。
慶次は利家より阿尾城代に任命され、天正12年(1584年)末森の合戦、その翌年阿尾合戦に参戦しました。天正18年(1590年)には豊臣秀吉の小田原征伐が始まり、利家が北陸道軍総督をぜられて出征することとなったため、慶次もこれに従います。続いて、利家の命により陸奥地方の検田使を仰せつかりこれに随行致しました。

慶次の出奔

 天正15年(1587年)8月、養父利久が永眠します。慶次は父の死に遭遇し、これまでの人生を振り返り何かを考えたのでしょうか、突如利家を出奔します。これが前田慶次逸話として有名な「利家を水風呂に入れる」です。

 利家を茶会に招待し、水風呂に入れた隙に馬にまたが飛び出したというもので、ある日、慶次は利家を招待し、寒い日のご馳走と「風呂」を勧めました。これはありがたいと利家は風呂に浸かったとたんに飛び上がりました。風呂は風呂でも水風呂です。怒り心頭の利家は、慶次を捕まえようとしたもののあっという間に逃げられてしまいます。慶次がまたがった馬があの「松風」であるとのことです。
 この利家を水風呂に入れるという逸話は大変有名ですが、もっとも後から出てきた随筆「翁草」に初めて出てくるもので、信憑性に関しては疑問視される場合もあります。
これが事実であるとすれば、侍大将クラスの家臣が主君を嘲弄したうえでの出奔であり、天下に前田家の恥を晒すことになり討手がかかったと推定されています。


直江兼続との出会い  
 上杉家への仕官  〜 米沢へ 〜


 前田家を出た慶次は、京都に身をおき貴人・文人との交流を盛んにしました。
 諸大名の邸宅にも遊びに出入したと言われており、悠々自適の生活を送ったとされます。
 時は豊臣秀吉の天下統一がなった折、風流の道に心惹かれていた慶次は、すでに六十歳に手が届こうとしています。
 頭を丸め「穀蔵院飄戸斎(こくぞういんひょっとさい)」という名乗りは、傾奇者というよりも遊び心なのかもしれません。この時期、直江兼続との出会いがあり、交わりを深めていったと考えられているわけです。
 しかしながら、「大ふへん者」の旗指物を掲げ、後に仕官した上杉家中の並み居るふへん者どもを挑発する過激さは存分に備えており、稀代の傾奇者という看板を降ろす気は毛頭なかったようです。
 
 前田家を出奔してから十年余り、直江兼続との出会いは慶次に大きな転機を与えます。上杉景勝・直江兼続主従の知遇を得て、「上杉中納言(景勝)殿は”義”を知る漢の中の漢」と上杉家に仕官、兼続の与力として千石を受けました。

 京都から米沢へと向かう途路、慶次は旅の記録を残しています。これが「前田慶次道中日記」です。

 慶次はおよそ十年も荒事からは遠ざかっていました。その慶次が再起したのは、やはり戦国の世の武人であって風流の世界に徹しきれず、男たるもの自身の最後の地を見つけずに飄々と生きていていいものかという想いがあったためではないでしょうか。
 また、徳川家康が動き出した天下再乱の兆しが見えた中で、もし前田家が徳川家と事を構えたならば、慶次はこれに帰参して戦列に加わっていたかもしれません。しかし、利家の後を継いだ利長は家康へ屈従し、家名を保つことを選びました。前田家が徳川に従った今、この後家康に対抗出来得る諸侯は上杉景勝のみ、そう思い定めての仕官だったとも考えられます。

 仕官したあとは、組外扶持方(くみほかふちかた)という自由な立場にあったといいます。慶次の仕官にあたっての条件は「録高は問わない。只自由に勤めさせてもらえばよい」というものでした。

長谷堂の合戦

 慶長3年(1598年)8月に秀吉が他界し、徳川家康が政権を掌握しはじめます。
 豊臣側であった上杉家は徳川より無理難題とも思える命令を受け、時の上杉家重臣直江兼続は直江状と呼ばれる批判の文を徳川に送りつけます。これに腹を立てた家康は、慶長5年(1600年)に上杉討伐を決め会津に進軍します。

 ところが突如として豊臣家を守ろうとする大阪の石田三成が旗揚げし、徳川軍は急遽引き返します。
 同年9月15日、西軍:石田三成と東軍:徳川家康が関ヶ原にて戦うこととなったのです。天下分け目の戦い関ヶ原の合戦の始まりです。

 このとき、豊臣五大老の1人であった上杉景勝の重臣直江兼続率いる上杉軍は、徳川軍が引き返したことを確認すると北方の最上義光を討つべく、山形攻を開始。その激戦地となったのが長谷堂でした。

 兼続率いる上杉軍の軍勢2万余り。最上軍は1万足らずというものでした。
 上杉軍は、まず白鷹山の北、畑谷城を強襲。城主江口五兵衛光清以下三百数十名を全滅させ、続いて山形城の南西6キロほどにある長谷堂城に押し寄せました。城の守りは志村伊豆守光安を筆頭とした最上の武士たちです。
 激しい戦闘は約半月も続き、上杉軍も3回ほど総攻撃を仕掛けましたが城は落ちません。

 最上義光は、長谷堂を落とされてしまえば山形城下が戦場になってしまうと、親戚にあたる仙台の伊達政宗に加勢を依頼しています。

 激戦が続く中、兼続の元に関ヶ原での石田三成率いる西軍敗戦の知らせが届きます。「もうここで戦う意味がない」と撤退を余儀なくされた上杉軍は、最上・伊達勢を主軸とした徳川側の軍により猛烈な追撃を受けました。

 直江兼続に従い共に殿軍を引き受けたのが前田慶次でありました。
 殿軍とは撤退の際に敵の追撃を受け持つ部隊のこと言い、その性質から、通常であれば壊滅的な被害を被るものです。
 しかし、この直江兼続の撤退戦は後に旧日本軍参謀本部の「日本戦史」で取り上げられるほど見事なものでありました。
 兼続は鉄砲800挺をもって首尾よく最上勢を迎撃するものの、最上勢はなおも襲い掛かります。
 慶次は水野・藤田・韮塚・宇佐美ら朱柄の槍を持った5名と兵300をもって、群がる最上軍の中に縦横無尽に分け入って戦っては退き、戦っては退くという見事な戦い振りで最上軍の士気を止めたそうです。

 戦場では修羅となり、いつ果てようとも悔いを残さない稀代の傾奇者が振り下ろす朱漆塗りの大きな槍は、最上勢の脅威であったと言えましょう。
 幾度かの戦闘の末、ついに最上勢の追撃を断念させるに至ったのであります。

 山形市大手町にある「最上義光歴史館」には、この長谷堂の合戦を描いた「長谷堂合戦図屏風」があります。右隻と左隻にはそれぞれ長谷堂城の攻防と退却する上杉軍を追撃する最上軍が描かれています。また、最上義光の兜が所蔵されており、その兜には長谷堂の合戦にて上杉軍の攻撃で被弾した銃痕が残ります


慶次 安息の日々

関ヶ原の戦いの後、上杉家はその戦後処理で大減封の憂き目を見ます。
 慶次と同じく戦いの場を求めて上杉家に参集した浪人衆の多くは他家に仕官しましたが、慶次は大幅な現地に甘んじて上杉家に残りました。
 その後の日々が、慶次にとって本当に風流を楽しみ文事に親しむ退隠生活となったと考えられています。

 慶次は、米沢の堂森に庵(無苦庵)を構え、悠々自適の生活を送りました。世俗にこだわらず、地元住民と深く交わり自然とともに穏やかな生活を送ったと伝わります。そのころ親しかった住民たちに贈った慶次所縁の品々が、米沢市堂森の地で代々引き継がれ現存しているのです。
 堂森には無苦庵に居した慶次が日々の暮らしに使ったと伝わる慶次清水と呼ばれる清水が湧き出ています。
 堂森に1200年余り続く善光寺には、慶次の供養塔が建立されており、慶次が他界した6月にはあじさい忌が行なわれています。
 供養塔の碑文には、「この地堂森に居を賜り邸を『無苦庵』と呼び悠々自適、この地を愛し郷民と親しみ、慶長17年6月4日70才の生涯を閉じた」と刻まれています。

前田慶次ゆかりの里案内図(JPEG:233KB)


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