浅野長矩「辞世」の作者
または多門筆記偽書弁再説

田中光郎

(1)問題の所在

 浅野内匠頭長矩が切腹する際に詠んだとされる「風さそふ・・・」の歌は、いわゆる忠臣蔵映画に欠くことのできないものである。しかし、この歌(以下、本稿では「辞世」と表記する)が良質の史料に見えないことも、指摘されている。「辞世」を載せているもののうち最も信頼できるとされるのが『多門伝八郎筆記』(以下『多門』)であるが、これについても疑う見方もある。私自身もこれを疑わしいものとする立場から、「多門筆記偽書弁」を書いた。その際、この辞世を載せた実録本『赤穂精義参考内侍所』(以下『赤穂精義』)の存在に気づき、以後その原作者である宍戸円喜=都の錦について考えてきた。
 まず「宍戸円喜(都の錦)の義士伝諸作について」において、彼の略伝(といっても不明な点が多いのだが)と、その作品と目される赤穂事件関連の実録本を確認した。「宍戸円喜の述作姿勢」では、彼の義士伝が『介石記』以外によるべき材料を持たず、『介石記』に欠落している部分は創作した可能性が高いと推定した。その間に書いた「乳母の自害」は、事実よりも文学的完成度を重視する態度を、一つの事例を通じて考えてみたものである。
 もう一度『多門筆記』の問題にかえる時期がきたように思われる。

(2)浅野長矩「辞世」の成立について

 宍戸円喜(都の錦)の義士伝作品『武道穐寝覚』『播磨椙原』『内侍所』には長矩の「辞世」が載っている。円喜のテキストでは
 風さそふ花よりも亦われは猶春の名残をいかにとかせむ(『穐寝覚』)
とあり、『多門』にあるものとは「また」と「なお」が逆になっているが、問題にする必要はないだろう。問題は、彼がこの歌をどうして知ったのかということである。

 作業上の仮定として『多門』が円喜諸作以前に成立していたとしておこう。彼が『多門』を見た可能性はあるだろうか。
 私は先に円喜が『介石記』以外に材料を持たなかったという推定をしておいた。伝記の曖昧さもあって断言はできないが、取材期間の短さと人脈の乏しさからいって、見る機会に恵まれたとは思えない。
 内容面から考えてみよう。『多門』には浅野切腹に関わる多くの事柄を記載している。たとえば浅野の処断が柳沢吉保の主導によるもので、これに対して多門伝八郎が抗議をしたことは、『多門』全体の主題といってもいいほどの事件である。しかし、円喜は柳沢には全く言及せず、当然多門の抗議も見えない。『多門』では、庄田下総守が内匠頭に冷淡で、多門が同情的である。ところが円喜作品では、浅野に同情する存在があるとすれば庄田または田村であり(『播磨椙原』『内侍所』)、多門伝八郎は影が薄い。
 それやこれやを考え合わせてみれば、円喜が『多門』を見て書いた可能性は、ほとんどないだろう。

 『多門』以外から知った可能性はどうだろう。繰り返すようだが円喜に特別な情報ルートはなかったはずだ。もしこの歌が一般に流出していたのなら、円喜作品以外にも残っていそうなものである。もちろん幸運に恵まれて特ダネを掴んだ可能性がない訳ではないが、捏造(もとい文学的創作)したと考えるほうが合理的であろう。
 章題を浮世草子風にするなど、より文学指向の強い『播磨椙原』には、「辞世」以外にも彼が創作したらしい歌が見える。刃傷事件の数日前に長矩が庭の桜を見て
  常ならぬ世の習こそはかなけれ花のちりゆく春も知られす
と詠み、側近たちを心配がらせた。また、切腹の翌日に局・嶋地(武林唯七の母)と内匠頭奥方が
  わかれそふ君の行衛にありあけの月にぞぬるるわが袖の露
  何にかはかげなき人のことのはののこりて今朝の泪とはなる
の歌を交換したという。これらの歌を創作だとするのに異論がなければ、「辞世」についても同様に考えてよいのではないだろうか。

 以上、「辞世」が円喜の創作にかかるものだという仮説を提示した。当然ながら『多門』は円喜作品以後に成立した偽書ということになる。この前提の上で、もう少し『多門』の成立について考えてみよう。

(3)『多門伝八郎筆記』の成立について

 宍戸円喜(都の錦)に着目するきっかけを与えてくれたのは、山本卓氏の論文「『赤穂精義内侍所』攷」(『江戸文学』29)だった。山本氏は増補された『赤穂精義』の浅野切腹場面を分析し、介錯刀の件と片岡暇乞の件がもとの『内侍所』になく増補されたものであることを指摘し、その情報源として『多門』に言及している。もちろん氏の関心は情報源を特定することにはないのだが、私としてはそこにこだわらざるを得ない。「辞世」が円喜の創作だとする私の仮説が正しければ、話は逆転するはずなのだ。

 介錯刀の件とは、浅野が自分の刀で介錯してほしいと願い、そのようにされたという一件である。これが史実と異なるという点については既に指摘されているので贅しない。重要なのは、この件が既に『介石記』に載せられていたという点である。従って円喜もこの件を承知しており、『穐寝覚』には割注の形で載せてはいる。しかし、それ以上の扱いをしてはいない。恐らく彼の創作意欲をかきたてる話題ではなかったのであろう。
 片岡源五右衛門暇乞の一件は、『介石記』にはもちろん、円喜作品にも登場しない。これに類する記事を最初に載せたのは、おそらく江島其蹟の浮世草子『けいせい伝受紙子』(宝永7=1710、岩波新日本古典文学大系78所収)だと思われるが、これは同年に京の夷屋座で上演された『太平記さゞれ石』のノベライズらしい(新日本古典文学大系解説)。ここでは(浅野に該当する)塩冶判官と最後の対面をするのが、鎌田惣右衛門という家臣である。片岡の暇乞が事実であるとすれば、鎌田は片岡をモデルにしたと言えるであろう。しかし、暇乞いが事実でないとすればどうだろう。鎌田惣右衛門は、勘気を許されるという設定から、不破数右衛門をモデルにしているという見方もできる。周知の通り『仮名手本忠臣蔵』ではこの役割を大石自身=大星由良助が負っていた。先行する『鬼鹿毛武蔵鐙』では中間・与四郎が、『忠臣金短冊』では原郷右衛門が、この役割を果たしている。舞台では主君の無念を引き受ける役回りが必要で、それは(極端に言うなら)誰でもよかったのでないか。ただし、実録本の世界に組み入れるとなれば、条件は細かくなってくる。当時江戸にいて、長矩の信頼が厚く、討ち入りに加わった人物・・・となれば、片岡あたりに絞り込まれるのは無理からぬところである。片岡源五右衛門をモデルに『伝受紙子』の鎌田が描かれたのではなく、鎌田をモデルに『赤穂精義』の片岡が描かれたのだと思われる。

 この挿話は『内侍所』までの円喜作品にはなく、増補された『赤穂精義』および『多門』に見える。そこで、『赤穂精義』と『多門』の関係を考えてみると、先に円喜作品と『多門』の関係で指摘した事が大体生きている。つまり『赤穂精義』には柳沢の専横は記されず、庄田・田村が浅野に同情的で、多門伝八郎の存在感は稀薄なのだ。これは『赤穂精義』の著者(増補者というべきだろうか)が『多門』を見ていないことを示すと思われる。
 話が逆転すると言ったのは、ここのところである。『赤穂精義』の著者が『多門』を見たのでなく、『多門』の作者(もちろん多門伝八郎その人ではない)が『赤穂精義』を参照したと考える方が自然ではないだろうか。『赤穂精義』には、介錯刀の件・片岡暇乞の件・「辞世」の件などが揃っている。これに柳沢の件などを付け加え、花も実もある理想的な武士・多門伝八郎を主人公とする『多門』が成立したのである。「実録体で、事実無根の事件を創作し、その後から記録風のものが創作される奇現象も起こる」(中村幸彦「実録」=『日本古典文学大辞典』)時代のことならば、異とするほどでもないだろう。
 その際に、作者の脳裏には『仮名手本忠臣蔵』の石堂右馬之丞が浮かんでいたに違いない。鎌田・片岡の関係と同様に、石堂をモデルにして多門が描かれたと考えたい。