いわゆる義士伝に多くの材料を提供している実録本『赤穂精義参考内侍所』は、宍戸円喜の『内侍所』を後人が増補したものである。宍戸円喜は浮世草子作家都の錦の別名であり、『内侍所』に先行して『武家不断枕』『武道穐寝覚』『播磨椙原』などの義士伝物を著していることが知られている。これら諸作の先後関係については見解が分かれるが、いずれも『介石記』の強い影響下にある*。本稿では『介石記』と『武道穐寝覚』の比較検討を行い、円喜の義士伝がどのように作成されたかを考えてみたい。『穐寝覚』を選んだのは、『不断枕』のテキストが現在見られず、『播磨椙原』よりも文体が『介石記』に近いからである。立論は『播磨椙原』でも大差なくできるものと考えている。
まず、両書の目録を並べてみよう。
介石記 第一 | 武道穐寝覚 上 | |
---|---|---|
浅野殿と吉良殿と遺恨 | 浅野長矩於殿中意趣討の事 | 低 |
〃 | 内匠頭に切腹被仰付事 | 低 |
- | 浅野大学江分地被仰付事 | 無 |
- | 間喜兵衛妻自害の事 | 無 |
并 家臣節義之事 | 赤穂城騒動の事 | 高 |
多川月岡江戸使 | 〃 | 部分高 |
并 戸田釆女正殿御状之事 | - | |
附 方々使者之事 | - | |
赤穂城騒動 | 大石異見の事 | 高 |
〃 | - | |
并 諸士義不義之事 | 〃 | 部分高 |
〃 | 矢頭右衛門七義勢の事 | 高 |
赤穂の城渡 | 〃 | 中 |
〃 | 赤穂城渡ス | 中 |
并 口々 | - | |
附 大石志之事 | 并 家中離散の事 | 中 |
武道穐寝覚 下 | ||
赤穂浪人噂物語 | 内蔵助偽而不行跡の事 | 中 |
并 内問之事 | 〃 | 中 |
〃 | 大石父子并小野寺十内江戸下向の事 | 中 |
介石記 第二 | ||
赤穂同士盟約違変 | - | |
附 横川勘平古郷へ申残状之事 | - | |
忠義の士名残の事 | - | |
附 小野寺が妻和歌 | 〃 | 中 |
大石浅野殿之訪後室事 | 内蔵助訪浅野後室事 | 高 |
夜討内試 | 義士泉岳寺に参詣の事 | 部分高 |
并 堀部夢想 | - | |
附 芝泉岳寺を始本庄の茶屋口上之事 | - | |
夜討出立 并 夜討之事 | 義士夜討に入る事 | 高 |
上野殿最期 | 上野介最期の事 | 部分高 |
并 寄手退口の事 | - | |
介石記 第三 | ||
酒屋口上 | - | |
并 泉岳寺僧衆口上之事 | - | |
附 首手向之事 | - | |
四十七人連名口上書之事 | - | |
吉田忠左衛門富森助右衛門仙石伯耆守殿え行事 | 四拾六人預ケらるゝ事 | 中 |
吉良殿h屋敷之事 | 吉良左兵衛家内改らるゝ事 | 中 |
〃 | 上野介家来無疵者 | 高 |
〃 | 夜討の者上野介屋鋪に捨置候品々 | 中 |
従泉岳寺首送り | 〃 | 中 |
附 落首之事 | 〃 | 中 |
義士伏誅 | 夜討の者共切腹の事 | 低 |
并 辞世之事 | - | |
介石記 第四 | ||
大石夢物語 | - | |
并 義士吟詠 | 義士詩歌 | 中 |
岡林杢之助小山田十兵衛自害之事 | - | |
間十次郎妻和歌之事 | - | |
何某氏逢幽霊事 | - | |
義士詩 | - | |
奥州何某之状 | - | |
并 返牒 | - |
一見して明らかなのは、対応する部分がきわめて多いことである。「−」をつけたのは対応する箇所を欠く場合で、若干の出入りはあるものの、順番までほとんど同じである。「高」「中」「低」は私の印象でつけたものだが、類似の程度である。「部分高」としているのは、全体としては「中」程度であるが、部分的には「高」なみに類似しているという意味。「無」は『穐寝覚』にあって『介石記』にない項目である。
類似度「高」の例として「赤穂城騒動の事」を見てみよう。まず元になっている『介石記』の記載はこうである。
浅野殿家中は、渡る船の楫をくだき、瞽者の杖を失ふが如く、忙然としたる計なり。先殿中喧嘩の注進には、早水藤左衛門、萱野三平二人、翌日又切腹の注進には、原惣右衛門、大石瀬左衛門二人、江戸より赤穂へ行程百七十里、各五日に着たりける。元来此家武備に長じて、此忙しかりける内に能手配りをして、江戸家中の引払ひ、小船百余艘を集、一二三の文字あかく書て舟印として、家中の侍に番組を定め、家々の荷物番付次第に積出し、手よりの方へ退たりける。雑人小者諍論せず、盗奪の患なく、さも見事にぞ見えたりける。
これに相当する『穐寝覚』の記述は以下のようである。
内匠頭非常の刃に命を堕し給て後、赤穂には暗夜に燈火消て行人蹇たるが如し。先、殿中喧嘩の注進として在江戸の士、馬廻早水藤左衛門、同萱野三平両人、三月十四日午の下刻に江戸表発足す。又切腹の注使には、物頭原惣右衛門、馬廻大石瀬左衛門、同十四日の夜丑の上刻打立、江戸より赤穂へ行程百七十余里、各五日に着たりける。元来此家先祖浅野弾正長政より自来武備に長じて、殊に家老大石内蔵助良雄、節義を上に尽し、慈愛を下に施し、勇敢最秀一にして武略の才のみにあらず。志し寛大にして損益利害に明らかなりければ、短を捨て長を執、大に付て小をかへりみず。緩なるをおゐて急なるを用れば何事を行ても其功下り坂の車を押がごとし。此忙しかりける最中に能く手配をして、惣て家中の引払に舟百余艘を集、白紙を小旗にこしらへ丹を以一二三の文字を書付、舟印として諸士に番組を定め、家々の荷物番付次第に積出し、手寄の方へ退きたりける。依之雑人小者諍論せず、盗み奪ふ患もなく、さも見事にぞ有ける。
『介石記』が江戸の出来事として書いていたことを、赤穂の話にすりかえて大石の偉大さを称えるという改変はあるが、文言はかなり一致している。引用ないし剽窃と言ってよいだろう。
次に類似度「中」の例として「大石父子并小野寺十内江戸下向の事」から、小野寺夫妻和歌贈答の件を見てみよう。
九月末より、小野寺京都より、大石主税を伴ひ、江戸へ下りける。箱根山にて、知人の上京するに逢て、京へ残置妻女へ状を遣しける。妻の方より返事に詠じて越ける。
筆の跡見るに泪の時雨来ていひかへすべきことの葉もなし
十内かへし
限り在りて帰らんと思ふ旅だにもなを九重は恋しき物を
『介石記』が十内が主税をつれて行くとしているのに対し、『穐寝覚』では大石父子・小野寺父子の四人連れに作っている。
偖、十内は妻女をば町人に由縁ある方へ頼み置て、子息幸右衛門を伴ひ以上四人旅立し
道行 頃は菊月末つかた(中略)足柄山に差懸り筥根峠を分越し時、大津屋といえる町人、元来知音なりけるが帰京するに逢て、小野寺十内矢立の辞を借りて、都に残し置たる女房へ消息を言伝ければ、日を経て十内東武へ下着の後、妻の方よりかくぞ読おこせける。
筆の跡みるに泪のしぐれきていひかへすべきことのはもなし
十内返歌
限りありかへらぬとおもふ旅にだも猶九重は恋しきものを
類似度「高」に認定したところとはちがい、文章としてはかなり差が目立つ。特に省略した部分は道筋を美文で綴っており、本書中最も“文学的”になっている。それでも、材料を『介石記』から採ったのは間違いない。「大津屋」という固有名詞などはもっともらしい創作であろう。
『穐寝覚』のうち類似度を「高」「中」とした部分は、『介石記』の強い影響下にある。これに対し「低」とした部分には『介石記』に見られない記事が多い。「無」としたのは、相当する部分が全くない箇所である。
「低」ないし「無」の箇所が浅野刃傷事件から切腹のあたりに集中していることに注意したい。それ以外の「低」は、四十六士切腹のところである。義士伝の中核はほとんど「高」「中」であり、順番も『介石記』と一致している。
これは、円喜が『介石記』以外にほとんど材料を持たなかったことを示すと思われる。事件当時京坂にいた円喜は、元禄十六年に江戸に行って材料を集めたという。捕えられるまでの江戸滞在が孤独で短期間だったとすれば、大した資料を収集し得なかったのに無理はない。
(ただし、これは『穐寝覚』および『播磨椙原』の書かれた段階での話である。『内侍所』は多くの参考文献を掲げている。)
ところで『介石記』の浅野の刃傷及び切腹に関する記述は、きわめて簡単である。事実を記録しようとした(もちろん結果としてすべてが事実だった訳ではないが)『介石記』作者としては、情報がない以上書くことはなかった。しかし文学者“都の錦”にとってはその欠落は許せなかったに違いない。悲劇の発端に力がなければ、ドラマとして魅力あるものに仕上がらないではないか。
十内夫妻の和歌贈答に見たように、材料があればそれを基にすることができる。しかし、材料がない状況で“文学的”完成度を高めるためには「創作」するしかない。『介石記』にない部分は、円喜が創った可能性が高いと思う。もちろん何らかのソースはあったかも知れない。しかし、それを物語にまで広げたのは、円喜の文学的想像力だろう。『介石記』の否定している「乳母の自害」を強調したの(拙稿「乳母の自害」)は、「述べて作らず」ではない、彼の述作態度を明らかに示している。宍戸円喜=都の錦は、やはり歴史家ではなく小説家なのである。