多門筆記偽書弁

田中光郎

 およそ赤穂事件の研究に手を染めたほどの人であるならば、タイトルを見て何を今更、と思われるであろう。『多門伝八郎筆記』(『多門伝八郎覚書』ともいう。以下『多門』)に信のおけないことは、抹殺博士・重野安繹以来繰り返し述べられている。今改めて偽書である旨を陳ずることは屋上屋を重ねるの批判を免れまい。だがしかし、今もなおこれに依拠した赤穂事件の記述が再生産され続けているし(それがいけないという意味ではもちろんない)、信をおくに足らずとする論者でも多門自身が書いたとしている場合が少なくない。今いちおうこれについて考えておくことは無駄ではあるまい。

 『多門』の問題点のうち、有名なところを挙げておこう。
 第一に数えられるのは、浅野長矩の「風さそふ・・・」の辞世である。同書にのみ見え、他の史料にあることが知られない。辞世が事実詠まれたとすれば、浅野家サイドに伝えられたに違いなく、当然浅野家の記録に残らなければならないのに、その形跡がないのである。もっとも信夫恕軒だけは「土佐守(つまり長矩妻の実家)奥方の実家」(小笠原家?)に表装されてあったと言っているが、はなはだ怪しい。少なくとも、浅野家で長矩の伝記を編纂した際に採用されなかったことは確かである。
 また、片岡源五右衛門が長矩に最後の対面をしたという有名な場面も、傍証を全く欠く。田村家の公式記録には載せられなかったという理屈は認めるとしても、片岡本人を含む関係者の誰もがこの重要な“事実”を語らなかったとは肯けない。
 事実として「ありそうにない」事柄は他にもあるが、『多門』が信用できない理由はこの二点くらいでも十分であろう。

 少なくとも研究者レベルでの多数意見は『多門』を信用できないとするものである。にも拘わらず、何故か本人の書いたものとするのが主流なのだ。その根拠は、よくわからない。野口武彦氏は途中まで「当事者シカ知リ得ヌ細部」を伝えているというが(『忠臣蔵』p35)、そのあたりでも事実と食い違うことが確認されているから(たとえば梶川から浅野を受け取ったのは多門でないなど)、その論理は成り立たない。
 来歴でいえば、『多門』にはかなり後の写本しか残されていない。それ以前に内容が流出した形跡もなく、密かに読んだという人も確認できない。そのことが偽物の証明にならないことはもちろんだが、本物の証拠にはなおならない。真贋は内容で判断するしかないのである。その内容が信用できないとすれば、偽物だと考えるのが順当であろう。『多門』の内容を事実に反するとしながらなお、これを多門伝八郎重共の著述とするならば、彼を嘘つき呼ばわりするのに等しいではないか。

 『多門』を多門の著述とする根拠は示されないものの、著述の動機に関する仮説を佐藤孔亮氏が示している(『「忠臣蔵事件」の真相』)。つまり嘘をついた理由を積極的に示しているのである。氏によれば「エリート旗本の挫折」(p116)すなわち宝永元年に小普請入りした失意がこれを書かせた、というのだが、これもあまりいただけない話である。そうだと仮定して、小説まがいの作品になるだろうか、また、それを人に見せずにおくだろうか、大いに疑問である。私の頭の中にあるのは、たとえば『三河物語』で、体裁は整わないものの内容は真実にあふれ、表面他見を禁じながら多くの写本が作られることを許容するものである。『多門』の場合、そうはならなかった。
 内容については措こう。多門伝八郎がこれを書いて人に見せたとしたら、間違いなく大勢が飛びついたはずである。しかし、繰り返すが『多門』の内容は江戸時代にはほとんど流布していない。早い時期の『赤城義臣伝』はおろか、幕末の『赤穂義士伝一夕話』にすら、影響が見られないのだ。
 庭先切腹のために庄田安利が罷免されたという話(罷免は事実だが事件との関係は不明)は早く『赤穂鍾秀記』などにも見える。しかし同書に伝八郎の“活躍”はまったく示されず、『多門』の影響ではないと考えられる。間瀬久大夫が「吉良殿中き人庄田殿・・・御役儀上り候由」と書いていることからもうかがわれるように(11月10日付神崎与五郎宛書状)当時からそんな噂があって、むしろ『多門』がこれを取り入れたと見るべきであろう。
 片岡の暇乞いは江島其磧『けいせい伝受紙子』(宝永7)鎌田惣右衛門のモデルになったと言われるが、どうだろう。其磧が片島深淵よりも一件についての資料をよく収集しえたとは思われない。この話は其磧の「創作」で、『伝受紙子』か後継作品の影響を『多門』が受けた可能性が高い。
 「仮名手本忠臣蔵」の石堂が多門をモデルとしているというのも、疑わしい。浄瑠璃作者は『多門』そのものも、その影響を受けた資料も知らなかったのではないか。『多門』の多門伝八郎が石堂をモデルに造型された可能性すら、否定できないように思われる。
 かりに多門伝八郎重共を『多門』の著者だと認めても、佐藤氏の「忠臣蔵を作った男」というのは過大評価であろう。すくなくとも江戸時代の「忠臣蔵」に『多門』の影響はほぼ皆無である。そして、影響が見られないということは、重共が書いたとする説明にとって具合が悪かろう。「自己宣伝臭」の強い作品を作りながらこれを公開しないのでは、何のために書いたのか、わからないことになる。

 『多門』の影響が見られないと書いたが、長矩の「辞世」と片岡の暇乞を伝えた実録本があることはある。『赤穂精義参考内侍所』(以下『内侍所』)がそれである。成立は比較的早いらしい(『赤穂義士事典』によれば宝永元年=1704)が、内容に問題が多い。『多門』よりは人の目に触れた可能性が高く、片島深淵や山崎美成は見ているかもしれないのだが、見たとしても採用にならなかった訳である。おまけに、同書では対面を許したのが庄田下総守のはからいとなっており、それが庄田の御役御免の原因となったとしている。筋が『多門』とは本質的に異なり、その影響下に成立したものとは考えがたい*。可能性のレベルで言えば、『多門』の影響を受けた資料によって『内侍所』が著されたということも全くないとは言えないが、筋も叙述も『多門』の方が数段優れていることから考えれば、『内侍所』を材料に『多門』が創作されたと見る方が妥当だろう**

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『内侍所』宝永元年成立説をとれば、『多門』小普請入後述作説がほぼ否定できる。ただし、これも不確かなことであるから、根拠にするのは避けておく。
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ほかに長矩の「辞世」を載せているものに『誠忠武鑑』がある。こちらも庄田が情深く描かれており、特に伝八郎が活躍する訳でない。『多門』の影響下にはないだろう。

 偽作であるという前提で考えてみると、これ『多門』はかなりよくできた偽作である。端役にいたるまで、架空のものがない。恐らくは相当の地位と知識のある人物の作品である。流布しなかったことから考えても商売っ気はなく、いわゆる戯作とは趣を異にする。多門伝八郎という人物に仮託して、正論を通す理想的な官吏の姿を描き出すことに力を入れた、まじめな“文学作品”なのである。本書の魅力はここにあるように思われる。
 優れた文学作品という評価ができるとしても、事件そのものを明らかにする史料としての価値はない。この観点からは「偽作」と見なすのが至当であろう。作者の気分としては「偽作」でないかも知れない。というのは、「拙者」とか「我等」といった一人称を地の文では避けているからで、覚書類にこうした例はない訳ではないが、自覚的な操作である可能性も否定できない。しかし、そこまで言ってはうがちすぎだろう。
 ともかくも『多門』は多門伝八郎の著述でないというのが現時点での私の考えである。新たな根拠が出てくれば事情の変わることは言うまでもない。私が本稿の結論を覆したくなるような、新しい知見を期待したい。