乳母の自害
成長する伝説

田中光郎

(注記)後で気づいたことだが、“浅野長矩の乳母”=“武林唯七の母”の自殺は『忠誠後鑑録』に見える。『内侍所』は『後鑑録』を参考文献に挙げているので(ただし「太田後鑑録」と表記している)、間喜兵衛の妻を武林母に変更したのはそれに従った可能性が高いようである。大幅に書き替えるか、削除すべきかとも考えたが、材料が揃わないこともあり当面そのままにしておく。御注意いただきたい。

(1)

 義士伝にしばしば登場するシチュエーションに、母が自害して子を励ますというのがある。多くの母親が講釈師の“舌にかかって”殺されている。そうした類型のひとつ、武林唯七の母の自害伝説が生まれた過程を考えよう、というのが本稿の目論見である。

 「武林母自害」伝説の完成形を、たとえば桃川如燕の講談速記本『赤穂義士銘々伝』巻之一にみることができる。
 「妾は殿様御幼少の時御乳を上げまして、勿体ないがお前とは乳兄弟、必ず不忠不義の名を取らぬやうにをし」と教えていた母、唯七の留守中に「見苦しからざるやうに両足を細紐で確り結いて、食堂気道を貫き、美事に死」んでしまった。唯七は「偖母上御自害なされたか、我が為には母の仇、御主の仇、やわか此儘に置べきか」と、吉良を討つ決意を固めるのである。
 実説では、武林の母は討ち入り時にも赤穂で生きている。江戸に下る前に兄にあてた手紙では、もし幕府からの咎めがあった時には母を刺し殺して自害せよ、と書いているくらいである。虚説であることは言うまでもない。

(2)

 この講談の元は『赤穂精義参考内侍所』だと思われる(本稿では西康雄『赤穂精義三考』のテキストによる)。この箇所だけでなく、多くの講談にネタを供給している。明の勇将・武林隆が蔚山の戦で浅野家臣・岡野弥右衛門に生け捕られ、名を武林唯右衛門と改めて、浅野家に仕えるようになった。その子・右衛門の妻(唯七の母)が長矩の乳母を務めた、というのである。唯七の祖父が明人だという以外は、ほとんど嘘であるが、この際史実は関係ない。ともかく、長矩の乳母だった母が自害をし、唯七の意を強くしたという説話の構造は明確である。
 『赤穂精義参考内侍所』は宍戸円喜の『内侍所』を後人が増補してできたものである。現在のところ『内侍所』の本文を確認していないが、川元ひとみ「『当世敵討武道穐寝覚』成立考」(『近世文藝』62)によれば、「家族に主君の雪辱を晴せと言い残して女が自害する内容の一章」で「本文は・・・殆ど同文」ながら、『武道穐寝覚』はこの女を「間喜兵衛の妻」、『内侍所』は「武林唯七の母」としているという。円喜の書いた『内侍所』の段階で、この物語の骨格は完成していたのである。

 以下の叙述は拙稿「宍戸円喜(都の錦)の義士伝諸作について」(li0068)に関わるところが多いので、併せて御覧いただきたい。

 ところで、川元氏の指摘の通り、『内侍所』に先行して円喜が書いた『武道穐寝覚』『播磨椙原』にも、長矩の乳母だった女性が自害をするという説話がある。ただし、これは武林唯七の母ではなくて間喜兵衛の妻(十次郎・新六の母)という設定になっている。実説では、喜兵衛の妻(正確には妾らしい)で十次郎・新六の母にあたる女性は、討ち入り当時は娘(十次郎・新六の妹)とともに赤穂にいた。つまりはこれも虚説である。
 この物語は、もともと間喜兵衛妻が主人公だったのに、ある時点で武林唯七母に差し替えられたのである。「ほぼ同文」というところも重要であろう。少々乱暴な言い方をすれば、どっちでもよかったのであるし、もっと乱暴な言い方をすれば、他の誰かでもよかったのである。

(3)

 もう少し遡ってみる。宍戸円喜の『武道穐寝覚』『播磨椙原』に『介石記』の影響が顕著なことは、野間光辰氏・川元ひとみ氏らの指摘するところである。その『介石記』に、ちょっと気になる記事がある。本編からはずれたこぼれ話「某氏逢幽霊事」の一条。
 切腹した四十六士のひとりの老父、泉岳寺の長矩および四十六士の墓所に詣でた。亡君の墓の傍らには、長矩切腹のおりに自害したという局の墓もあり、こちらもいっしょに回向した帰り、ふっと見るとどこやらで見たような老女がいる。あれは、今回向したばかりのお局様ではないか。お久しぶりでなどと挨拶したが、疑念がはれず「貴方は一昨年殉死されたと聞いておりましたのに、亡君がお喜びのあまり遣わされたのでしょうか」と聞いてしまう。老女の方は「生き残っていてはいけない者が生き残っているのでおなぶりになるのですね」と恨みがましく答える。「そんなつもりはありません。今貴方のお墓に手向けをしてきたところです」というと、「そんな噂になっていたのですか。一昨年、せめて菩提の種にと逆修墓を建てたのです」勘違いが判明して大笑い、という小話である。
 この話の主人公「某氏」、四十六士の誰かの父親で江戸で生きていそうな人というと、赤埴一閑であろうか。実話であるという確証はないが、そんな噂はあったのだろうと思う。

 『赤穂鍾秀記』には、こんな一文がある。「内匠頭墓之側に有之墓は、内匠頭乳母逆修立置申候処に、世間にては、内匠頭生害之砌、乳母殉死しけると沙汰しあえり」とある。ただの局ではなく、内匠頭の乳母が殉死をしたという噂があったらしい。『鍾秀記』が『介石記』の影響を強く受けていることは明白なので、逆修墓だったという落ちは『介石記』から仕入れたものだろうが、乳母の殉死という噂があったのは事実でないだろうか。

(4)

 『介石記』『赤穂鍾秀記』は事実を記すことを基本の態度としている。ここからは義士の母が自害して我が子を励ますという物語は生まれなかった。そこを飛躍させたのは、恐らく宍戸円喜(というよりは浮世草子作者だった都の錦)の想像力だろう。長矩の乳母が殉死したという噂を聞いても、『介石記』を知っている円喜は、虚説であると判断できたはずである。にも関わらず、その話をふくらませ、それが義士の母であるという物語に成長させたのである。歴史家の態度としては不適切だが、小説家の立場としては許容範囲であろう。
 上述の通り誰でもよかったのだとすれば、円喜はなぜ間喜兵衛妻や武林唯七母を選んだのだろうか。誰でもとは言い条、円喜なりの必然性はあったはずである。たぶん、討ち入り場面との一貫性を求めたのだ。
 討ち入り場面のクライマックスで、吉良を討ち留めるのが間十次郎・武林唯七である。円喜は、“母の教訓骨髄に徹し、天がこれに感じて吉良を討たせる”という「物語」を仕立てたかったのだと思う。討入部分は『介石記』に依拠して記述しており、人名を入れ替えるには無理がある。乳母殉死の場面は、依拠するもののない自身の創作であれば、誰でもよい。こちらを間十次郎母(喜兵衛妻)や武林唯七母にするのを、妨げるものは何もなかったはずである。
 喜兵衛妻から唯七母に変更した理由はよくわからないが、物語としての完成度を高める意味があったように思われる。喜兵衛の妻だと、喜兵衛・十次郎・新六に拡散してしまう。唯七ひとりに集中させる方が、よりよいと思ったのではないか。『赤穂精義参考内侍所』は唯七母の死後その妹(唯七叔母)を登場させ、吉良を討ち留めたのが唯七と聞いて狂喜するという逸話を載せている。蛇足の感もないではないが、作者の狙いを明確にする処置ではある。

(5)

 長矩乳母の自害という噂を、武林唯七母の伝説に成長させたのは、宍戸円喜=都の錦だというのが、本稿の推定である。伝説の形成過程は不分明の場合が多いので、この程度でも跡付けができるのは恵まれたケースだと思われる。
 「実録」は本来“事実の記録”であって虚構を許容していない。しかし「実録体小説」という用語の示すとおり、「実録」の名で呼ばれる作品群には意図的な虚構を含むものが少なからずある。本来の意味の実録を中村幸彦氏にならって「実記」とよぶことにすれば(『日本古典文学大辞典』「義士伝物」の項)、『介石記』や『鍾秀記』は「実記」と言ってよいだろう。円喜の諸作品はすでに「実録体小説」の実質をそなえている。
 文学史上の位置づけは本稿の任でない。こういう小説的性格を有する記事が、「実録」として我々の史実認識の中に忍び込んでいることを、意識しておくことが必要だということを確認したいだけである。