宍戸円喜(都の錦)の義士伝諸作について

田中光郎

(1)はじめに

 講談などで語られる赤穂義士伝の多くがフィクションであることは、言うまでもない。それらの俗説は、赤穂事件の史実の認識とは無関係のようではあるが、実際には我々の事件に対する認識に忍び込んできており、それをきちんと弁別していくことが必要である。忍び込んだ俗説を検知するには、俗説の成立過程を知っておくことは無駄ではあるまい。これらがどういう経緯で生まれてきたかということは、十分に明らかになっているとは言い難い。ただし、国文学の分野で実録体小説の研究が進んでおり、その成果を享受することができる。
 義士伝に多くの題材を提供している『赤穂精義参考内侍所』という実録本がある。『赤穂義士事典』では、宍戸円喜著として「宝永元年に成った実録風の読本である」という程度しかわからない(「読本」というには問題がある)が、国文学の研究で都の錦の手によるものであることが明らかにされている。厳密には、『内侍所』四巻本が都の錦の作で、『赤穂精義参考内侍所』は後人の大幅な増補によって成立したものである。さらにいうなら、宍戸円喜=都の錦は『内侍所』に先行していくつかの義士伝を著していることも知られている。
 本稿では、国文学研究の成果に依拠して『内侍所』にいたる宍戸円喜(都の錦)の諸作についての整理を行い、今後の検討の基礎としたい。

 宍戸円喜=都の錦には号・変名がすこぶる多い。国文学史上では、元禄15年頃に作品を出版した時に用いていた「都の錦」という筆名が最も有名であるが、本稿では『内侍所』の成立に関心があるので、宍戸円喜の名で呼ぶことにする。
 国文学の分野での研究のうち、本稿作成にあたって参考にしたのは次のものである。  ほかに『日本古典文学大辞典』の「都の錦」(野間光辰)「実録」「義士伝物」(中村幸彦)「忠義太平記大全」「忠義武道播磨石」(江本裕)の項なども参考にした。

(2)宍戸円喜略伝

 宍戸円喜(通称は与一、実名は光風)は延宝3年(1675)、牢人・宍戸弥一右衛門久光の長男として大坂に生まれた。出生地は、京都とか江戸とか書いている場合もあるし、播州佐用郡ではないかと思われる節もある。赤穂藩の領地が佐用郡にもあったから、浅野家と何らかの関係があった可能性も否定できない。元禄8年(1695)上京して御幸町竹屋通下ルに住む。学問修行のためであったらしいが、悪友に誘われて島原に通い詰め、元禄13年(1700)勘当されてしまう。翌14年(1701)鉄舟と改名して仮名書物を書いて生活するようになる。この年の夏大坂に下り、15年(1702)正月西沢一風の勧めもあって、亀山仇討に取材した『元禄曽我物語』を都の錦の筆名で出版。以後16年(1703)春までの短期間に同じ名で多くの作品を出版した。
 元禄16年4月3日、円喜は江戸に入った。動機は「立身の為」ということだが、仕官を求めたのか、または文名を挙げようとしたのか。いずれにしても、あてにしていた知人が転居先不明でうろうろしているうち、「無宿改」の布施孫兵衛に捕えられ、寺社奉行の永井伊賀守に引き渡され、同年10月に薩摩山ケ野金山に送られたという。このあたりの事実関係、不審の点が多い。根拠となっている「牢訴状」というのも頗る怪しいものであるが、当面は保留。宝永元年(1704)流人仲間の源次郎なる者の迫害を受け脱走を企て、牢に入れられる。2年(1705)許されて鹿籠金山に移る。
 宝永6年(1709)ごろ、大赦によって上方に復帰したものと考えられる。宝永8年(1711)『新鏡草』を、正徳2年(1712)『当世智恵鑑』を出版した。その後のことは判然としない。正徳4年に九州に向けて出発したともいう。鹿児島県には、鉄舟=実は都の錦=実は寺坂吉右衛門が出水に住んで享保11年(1726)に没したという伝承もあるが、もとより事実とは認めがたい。要するに、よくわからないのである。

 この件は桐原忠利『都の錦・鉄舟 薩摩路の足あと』(S49、ハレルヤ書店)に詳しいらしいが、未見。江下博彦『七人の吉右衛門』にも取り上げられているが、偽者という見解である。

(3)円喜の義士伝諸作

 さて、問題の義士伝物実録作品群であるが、成立年次・成立事情ともはっきりしないものが多い。相互の関係についても諸説紛々の状況である。

A 『武家不断枕』

 【野間b】によれば「作者播州住人林中助」の奥書のある二巻本だという。現在は伝本が不明である。静嘉堂文庫本『播磨椙原』の序に「往に編る所の武家不断枕は」云々とあり、『播磨椙原』に先行していたと思われる。一方では狩野文庫本『播磨椙原』の巻末に「武家不断枕三巻同増補四巻・・・」と「予告」がなされており、随時増補がなされていたらしい。枕崎に『参考不断枕』十二巻(六冊)が残されている由であるが、これも確認できていない。(以上、主として【川元b】による)。

B 『播磨椙原』

 【野間a】が紹介したのは@狩野文庫本だが、ほかにA静嘉堂文庫本、B関本が知られている。ほかに@を写した頴原文庫本と、所在不明ながら饗庭篁村の見た本があるはずだという。
 @狩野文庫本:二世柳亭種彦の蔵書を狩野亨吉が継承したもので、現在は東北大学が所蔵している。三巻本。扉には、「亥の冬」すなわち宝永4年(1707)の12月に書き終えるはずのところ、事情により子(宝永5=1708)の夏の末に完成したものの、また改正したという記述がある。同じ扉に「宝永五載六月十日ヨリ索独楽無二雅伯書鹿籠金山/流人鉄秀居士判」とあり、また奥付に「宝永伍載六月下四天」とある。この日付は「子の夏の末」であるから、「改正」前の日付をとったもので、厳密には狩野文庫本の成立は宝永5年のしばらく後と見るべきであろう。
 なお、この本に有名な「牢訴状」が収載されていることを忘れてはならない。「牢訴状」が付載されたのは、次のような理由による。宝暦11年(1762)「鉄秀」自筆本を安山作兵衛という人物が筆写したが、文久2年(1862)に虫損などがあったため関市兵衛の蔵本(すなわちB関本)を借りて校合し、新たな写本を作成した。その際に「牢訴状」の写しを入手して、著者についての情報として加えたのである。
 A静嘉堂文庫本:三巻本。【野間b】および【若木】に解説がある。内表紙に「義士寺坂吉右衛門自作自筆完」とあり、上述の寺坂伝説との関係が窺われる。また序には「往に編る所の武家不断枕は、童女の為に文義通じがたければとて、今又平話を以三巻に略し・・」云々と『武家不断枕』との関係を述べている。序の日付は「宝永六載伍月十日」署名は「薩西鹿籠金山流人軒/不埒庵/童落院書」となっている。中巻に「五月廿烏」下巻に「五月廿五日終」と日付が記載され、宝永6年(1709)に鹿籠金山で成立したと考えられる。筆跡は円喜のものと似ているが「用紙は新しく、都の錦の自筆本を薄葉でもって透写したもの」と推定されている(【若木】)。
 B関本:三巻本。鹿籠金山先役を務めた関家に伝わったもので、昭和47年鹿児島大の大内初夫氏によって発見された。現在は、同時に見つかった『捨小舟』ともども枕崎市の文化財に指定され、市立図書館に所蔵されている。【若木】はこの本の紹介しながら全文を翻刻したものである。年次記載、刊記などはないものの円喜の自筆らしい。三本中ではもっとも古態を残すとされている。

C 『武道穐寝覚』

 現存するものは大阪府立中之島図書館所蔵である。「増補秋のね覚」という柱刻のある料紙に、円喜が自筆で書いているもので、作者については「二千風述之」とある。成立年次は不明で、元禄16年江戸にあった当時とする説(【野間b】【中嶋】)、上方文壇復帰後とする説(【川元b】)があるが、当然その間(薩摩時代)という可能性も否定できないだろう。【川元a】において翻刻されている。

D 『内侍所』

 のちの『赤穂精義参考内侍所』の元になったものである。甲申=宝永元年(1704)の貝原篤信の序と、元禄十六年(1703)の「二千風円喜居士於東武深川書之」という自序を載せているのが特徴になる。ただし、貝原益軒の序文は偽物とされている(【野間b】)。本文中、参考文献として『播磨椙原』の名を挙げていることには注意しておきたい。四巻ないし五巻。【川元b】は三本を挙げている。
 @赤堀政宣所蔵本:四巻四冊。文化14年9月筆写。なお第一巻にあたる「仁之巻」は昭和57年所蔵者の校訂で出版されている(義の巻以下が刊行されたか、つまびらかにしない)。
 A三康図書館所蔵本:四巻四冊。文久2年頃筆写。序文を欠く。
 B小二田誠二所蔵本:五巻五冊。表題は『武鑑内侍所』。
 また、【山本】によれば、山本卓氏は三本を所蔵している由で、そのうち一本は享保五年写というから、かなり早い時期のものである。

D’『明鏡記』

 【川元b】は筑波大学図書館所蔵の『忠臣明鏡記』(『国書総目録』によれば宍戸円喜著)五巻五冊を『内侍所』の異本と見ている。【野間b】は『武家明鏡記』を一異本と推定している。「内侍所」が鏡を意味することから言っても、二つの『明鏡記』を『内侍所』の異本とするのは無理のないところだろう。『武家明鏡記』は『赤城義臣伝』の引用書目(厳密には『通俗演義赤城盟伝』の引用書目というべきだろうか)に見えることも注意しておきたい。かなり早い時期に出回っていた可能性があるわけである。

E 『赤穂精義参考内侍所』とその異本

 Dをもととして後人の増補したもの。異本がはなはだ多く、表題もまちまちである。【野間b】によれば『赤穂精義内侍所』の題で12巻本・20巻本、『赤穂精義参考内侍所』の題で40巻本、『忠臣規矩順従録』の題で12巻本・24巻本があったという。
 『赤穂精義内侍所』(『赤穂精義参考内侍所』を含む)については【山本】が考察している訳だが、「十巻・二十五巻・四十巻・五十巻などさまざまな伝本がある」ことに言及してはいるものの、それぞれの内容や書誌を詳しく紹介してくれる訳ではない。「伝本諸本の整理研究は避けて通れないプロセス」としながらも「この過程を少し猶予して」の研究であるから、やむを得ない。山本氏が猶予を必要とするということは、私などに歯の立つ仕事でないのは明白である。関心は持続しつつも、当面は保留せざるを得ない。
 増補された『赤穂精義内侍所』(40巻)について、山本氏は『日本古典文学大辞典』を引用し明和7年ころの成立としている。根拠が必ずしも明らかでないが、中村幸彦氏のことだから、信頼すべき根拠はあるのであろう。近代の翻刻では「近古実録」が知られている。「元四十巻のもの」を「五冊に縮刷」したとある。最近では西康雄氏が所蔵の四十巻本を『赤穂精義三考』と題して出版した。【山本】もこのテキストを利用している。
 『忠臣規矩順従録』は『準縄録』とも書かれる。『赤穂義士事典』によれば田丸常山の著で24巻とあるが、野間氏の説に従っておこう。『国書総目録』には10本を載せているから、かなり広く流布したものと思われる。

F 『忠義武道播磨石』など

 【野間b】は『武道忠義太平記』『新篇武道三国志』『近士忠義太平記大全』なども都の錦の作品であると推定している。このうち『武道忠義太平記』の異名が『忠義武道播磨石』で、『赤穂復讐全集』(帝国文庫35)に収載されている。ただし、必ずしも野間説が主流という訳ではないようである(『日本古典文学大辞典』)。ジャンルとしても実録体小説ではなく、浮世草子というべきであろうから、この作品群は無視しておこう。

(3)若干の考察 − むすびにかえて

 上述の通り、円喜の伝記が明白でないこともあって、その義士伝もの諸作品相互の関係もよくわかってはいない。
 F『忠義武道播磨石』などは、上に述べた理由で除外しておく。D『内侍所』(この場合はD’『明鏡記』を含んでよかろう)を元にして、後人がE『赤穂精義参考内侍所』を完成させたのは確実といってよい。『内侍所』が円喜の義士伝実録としては完成形態であろう。

 それに先行するのが、A『武家不断枕』B『播磨椙原』C『武道穐寝覚』の3作である。このうち、AとBの関係を言えば、BAの序文に『武家不断枕』の書名が見えることから、Aが古いと見られる。Cについては、これを最も古いと見る【野間b】説と、逆に最も新しいと見る【川元b】説が対立した格好になっている。
 野間説によれば、『穐寝覚』と『不断枕』の文章はほとんど同じで、記載事項が多い『不断枕』の方を増補版とみる(『不断枕』のテキストが不明の現在では、所説の妥当性を確かめようがない)。そしてこれを浮世草子風に改作したのが『播磨椙原』、実録的要素を強めたのが『内侍所』ということになる。
 川元説では、構成や文章の一致度において『穐寝覚』が『播磨椙原』よりも『内侍所』に近いことから、この二書の間におく。これを補強するのが、用紙の問題である。すなわち『穐寝覚』に使用されている両紙は、正徳4年に出版された『増補歌枕秋の寝覚』と同じものであることを指摘し、その時期以降に入手した用紙を利用した、つまり上方復帰以後と推定しているのである。
 いずれにしても、先後関係は不明確である。諸本が入り組んでいる可能性もあり、単純には言えないというのが実際のところである。

 先後関係はともかく、この3作の成立については、円喜=都の錦の薩摩における生活が無視できない。宝永5・6年に、鹿籠金山で書かれたというB@・BAの序文と、現に関家に伝わったBBは、円喜が薩摩鹿籠で『播磨椙原』を述作したという事実をほぼ証明している。薩摩時代の彼が、そうした書き物を売って生活していたことも、ほぼ確実であろう。その地でふきまくったホラが、「牢訴状」や序文類のなかに織り込まれていることも間違いない。恐らくその最たるものが、『内侍所』の貝原篤信序である。
 もっとも最初から「貝原篤信」と書かれていたかも明らかでない。円喜の常套手段に、有名人と紛らわしい名前を使用するというのがある。本人がたとえば「見原篤信」のように書いていたのを、筆写者が御丁寧に直してしまった可能性も否定できない。

 『穐寝覚』の用紙が、『増補歌枕秋の寝覚』を作った時の‘余り物’であったという【川元b】は説得力がある。同様の事情は『播磨椙原』等についても言えないだろうか。紙は高価な物であったし、薩摩で貧しい生活をする円喜にとってそれほど容易に調達できるものではなかったと思われる。旧知の京坂の書肆から余った用紙を送ってもらい、それを利用してもっともらしい書物をこしらえて売りさばいていた、ということはありそうなことである。邪魔なのは用紙の柱刻だが、それを逆手にとってタイトルを借用する。ちょっと見た感じ赤穂事件と関係のなさそうな書名で書かれているのには、そうした事情があったのではないか。ちなみに元禄期に『播磨杉原』という俳書が、享保期に果たしてしからば、『穐寝覚』を上方復帰後と決めつけるのも慎重にした方がよかろう。

 現時点では、これらの断片を収集しておくほかはない。伝記的事実の確認が進めば、関係は自ずから明らかになっていくであろう。