東行違変の舞台裏

田中光郎

(1)はじめに

 元禄15年7月、浅野大学長広の閉門が許され、芸州広島に移住することとなった。これにより、大学を相続人として赤穂浅野家の名誉回復を目指した大石内蔵助の運動は終結し、吉良邸討ち入りに向けての行動が本格的にスタートする。
 いわゆる円山会議において同志の結束を固めた大石は、神文返しにより覚悟の不十分な者を淘汰して50人余りまで絞り込み、その後若干の脱盟者があったため、最終的には47人で討ち入ることとなる。通常はこのように説明されており、大筋においては正しいと思うのだが、疑問の余地がないでもない。
 『江赤見聞記』に収載する「東行違変之書状」はこの時の脱盟届を集めたものだが、その多くは東下同行を断るという趣旨のもので、神文返しについての説明とは食い違う。このことはつとに福本日南氏が指摘している(『元禄快挙真相録』p362)が、その後の研究ではあまり意識されていないようである。
 本稿では、この脱盟届の検討を行い、併せて当該時期の一党の動きを追ってみたい。

本稿を書き進めるうちに、円山会議に対する疑問が大きくなってきた。会議の決定内容についての疑問は本稿の中で提示するが、会議そのものに対する疑惑まで一緒に述べるのは適切ではないように思われるので、別稿を予定したい。円山会議に相当する合議があったことは間違いないと思われるので、以下この合議を「いわゆる円山会議」と表現しておく。

(2)脱盟届の検討

 『江赤見聞記』に収載するところの脱盟口上書は、およそ22通である。正確に言うと25通だが、うち2通は一度脱盟届を提出した者に対して大石が翻意をうながし、再度断ったもの(小山源五右衛門・進藤源四郎)なので数えず、また中村清右衛門のものは大石宛と原宛があるので実質1通と数えた。2名ないし3名連記のものもあるので、署名の人数では27人。なお、この他に一家の者の分(2名)も併せているものもある。口上のみで断った分22人を併せ、51人の脱盟が確認される。
 口上書が載せられている分を月ごとに整理すると、8月が4通、閏8月が9通、9月が5通、10月1通、11月3通となる。11月の3通は大石出府以降のものなのでこれをのぞき、残りを次の3期に分けて考えてみよう。
 A 8月24日(大高・貝賀派遣)以前
 B 閏8月7日まで
 C 10月上旬(大石出府)まで

A 脱盟のはじまり

 もっとも日付の早い脱盟届は、8月15日付けの酒寄作右衛門と長沢六郎右衛門の2通である。酒寄の口上書がいつ大石に届いたのか定かでないが、文面からも江戸にいたことが確認できるので、実際に大石がこれを知ったのはしばらく後のことになるだろう。重要なのは、長沢のものである。
 長沢六郎右衛門・里村津右衛門は、丸亀にいた。大学の赦免・左遷およびいわゆる円山会議の結論を知り、急ぎ上京したものと思われる。8月14日に大石を訪ねたが不在で、この日は腹痛がひどかったので里村に脱盟届、というより「判形」を切り抜いて返してほしいという返還請求書を託した。この時までいわゆる神文返しが行われていなかったことの証拠である。脱盟の理由は「心底に了簡難仕」というばかりで必ずしも明瞭ではないが、「当春判形仕候節申上候通り」であるということで、大石には理解できたのだろう。
 注意しておきたいが、この「判形」が「当春」すなわち元禄15年春のものであって、前年開城時のものではないことである。『堀部武庸筆記』によれば、時節が延び延びになっていたので、志を確認するために、大石のところへ来がけに順次判形したという。その背景になっているのが、原惣右衛門等の強硬派と、小山源五左衛門らの穏健派の対立であり、内心原寄りの大石は隠し玉の吉田忠左衛門を投入して、どうにか結束を維持していた(拙稿「原新党の可能性」)。逆に言えば、穏健路線の長沢らにとっては不本意な妥協だったのであろう。そのおりにも言いたいことは言っていたが、結局自分の思いとは異なる決行方針が打ち出された。ここに至って、ついに手を切ると言い出したのである。

* 
連判といっても、牛王宝印の神文であった。現存するのは午(元禄15年)4月21日付けの井口半蔵・木村孫右衛門連署のものである。切り抜いてかえしてくれという言い方から考えて、長沢も他の同志と連名で提出したものと思われる。可能性が高いのは同じく丸亀在住だった里村津右衛門・山上安左衛門。里村は長沢といっしょに脱盟したと思われるが(里村の脱盟届については、記録がない。ただし後述の通り、長沢・灰方とともに早期脱盟者として記憶されている)、山上はこの時点では脱盟をしていない(閏8月12日付けで脱盟することになる)。そのため、切り抜く必要性があったのであろう。

 この長沢等の上京が、在京穏健派と気脈を通じてのものだったことは、河村太郎左衛門から連絡を受けて渡海したという文言から明らかであろう。8月の時点では、小山源五左衛門・進藤源四郎・河村伝兵衛といった穏健派も、依然として幹部として活動していたと思われる。医師の身ながら東下に同行しようと言い出した寺井玄渓の説得に、原惣右衛門・小野寺十内と上記3名がともにあたっている(8月6日付け大石書状、『江赤見聞記』)。次に脱盟を言い出すのは灰方藤兵衛で、23日付け(月を欠くが8月に間違いなかろう)進藤源四郎を介してであるが、進藤自身の脱盟は閏8月になってからだから、この時点では幹部としてメンバーの出入に関与していたと考えるべきだろう。この点は、後でもう一度考えたい。

B 大高・貝賀の派遣

 長沢の脱盟・判返し請求を承けて、大石はいわゆる神文返しを実施する。この間の事情をもっともよく説明しているのが、松山藩の記録『松平隠岐守江御預一件』である。同書によれば、長沢・里村・灰方の三人が「連判を破罷帰」ったため、「一味之内退候者如何程有之哉」と疑いがおこり、相談の上で、大高源五・貝賀弥左衛門両人に京・大坂・播州の一党の居所を廻らせたとある。すなわち、大学の左遷により「兼々之存立」をやめることにしたので「誓紙血判」を差し戻すと伝える。これにより、二心あるものは「兎も角も可仕」と返答し、志の変わらぬ者は腹を立てるであろうから、その堅固な者だけを選ぶというのである。両人は20日ほどもかけてこの使命を果たしたという。  これについては、大石が大高・貝賀両名にあてた指令書が残っている。8月23日付のこの書状は、文意が必ずしも明瞭でなく解釈しづらいところもあるのだが、おおむね松山藩の記録と一致している。しかも、松山藩の記録だけでは窺い知れない事情を考える手がかりを与えてくれる。

『赤穂義士史料』下および『大石家義士文書』所収。前者の判読していない部分まで、後者では解読している。

 第一に、前日8月22日に派遣について打ち合わせていることが知られる。また進藤源四郎を介して灰方藤兵衛の脱盟届けが届けられたのが23日の朝であることも確認でき、『江赤見聞記』の記載の傍証となると同時に、松山藩の記録とは少しニュアンスが異なり、両人の派遣は灰方の脱盟に先立って決定されていたことがわかる。なお、神文を切り抜くという作業はかなり手間がかかったらしい。本書に示されているのはいわば第1回分で、後の分は主税から受け取って、回るようにと指示している(ここの解釈には若干不安がある)。
 この指令書で示されている対象者は、奥野将監、不破八左衛門、前野新蔵、井口半蔵、木村孫右衛門、榎戸新介、矢野伊助の7人である。このほかに、山城金兵・原惣右衛門・杣庄喜斎・野々村・小山源五右衛門・平野(以上姓名は原文のまま)に一封づつ計6通、岡本への1通も併せて託されているが、「状」と明記されているので、神文とは別の通信であったと見るべきであろう。この7人は不破を除いて赤穂か亀山に住んでいたことが確認できるので、まず播州コース分を渡したものと推定できる。不破数右衛門(八左衛門)も何らかの事情でそのあたりにいたものであろう(事件後提出した親類書によれば、実父佐倉新助=岡野治大夫は亀山在住なので、同居していた可能性がある)。
 奥野将監への神文返しと同時に、山城金兵衛への書状が出されていることに注意しておきたい。山城金兵衛は奥野の変名であることが知られている。返却する神文と私信を別封にすることは理解できるとして、宛名を使い分けたのは何故だろう。その回答はしばらく保留しておく。
 この7人のうち、不破だけが討ち入りに参加するが、矢野の脱盟はもっと後なので、この時期の脱盟者は5人ということになる(奥野については、若干問題があるが、これも後述する)。この5人は『江赤見聞記』にはいずれも口上で断りのあった分として記載され、文書は残されていない。同書に収録された脱盟届のうち、神文返しに対応したと見られるものは2通のみ(幸田与三左衛門・田中権右衛門)である。大石の指令書にある“無理には領収書を取らなくてもよい”という指示を考えれば、これ幸いと返却に応じた者の多くは文書なしで脱盟したと理解してよいであろう。B期に属するものはこの2通のみで、当期の脱盟は神文返しによる淘汰と見なすことができる。

C 幹部クラスの脱盟

 B期(閏8月7日まで)とC期(閏8月8日から)を分けたのは、恣意的の謗りを受けるかも知れない。しかし、7日付けの田中権右衛門の脱盟届が最も典型的に神文返しに対応したものであるのに対し、8日付けの進藤源四郎のそれは全く異なり、自発的な意志で脱盟するという内容になっている。そしてこれ以降10月1日の佐伯小兵衛(佐々小左衛門)にいたるまで、一連のものが進藤と同様なのである。
 8日の進藤源四郎、10日の小山源五右(左)衛門クラスが神文返しの対象になったとは思われない。上述の通り、寺井玄渓の東下を思いとどまらせ、灰方藤兵衛の脱盟届を預かるなど、幹部として行動しており、神文返しの計画にも参画した側と考えるべきである。C期の脱盟は、神文返しの一段落した後に生じた現象であろう。
 それでは、進藤ら幹部クラスの脱盟にはどんな事情があっただろうか。『江赤見聞記』によれば、警戒が厳しいことを理由に進藤らが延引を主張したのに対し、大石も一時は同意したが、江戸在住の同志の反対があったので、結局すぐに下向することになった。当然進藤らはこれに不満で「一味之もの共もめ合」内蔵助の手を離れる者が60余人になったという。この延引論は単なる言い訳であった可能性が高いとは思うが、少なくとも表面的には路線対立による分離と言えよう。幹部クラスの尻馬に乗ったものも含め、C期の脱盟者は神文返しにより淘汰された者ではない、いわば積極的脱盟者と考えられる。

(3)「もめ合」の状況

 『江赤見聞記』のいう「もめ合」の時期を考えてみよう。上述の通り、同書に従えば@東下延引方針決定(京都)A延引反対の意思表明(江戸)B延引方針破棄(京都)となる。そして、閏8月8日に進藤が脱盟することから考えて、B延引方針破棄は閏8月上旬のことと思われる。京都−江戸の往復の日数(標準14日)を考えれば、@東下延引方針決定は7月下旬か8月上旬と見なければなるまい。
 この日程に沿った形で京都−江戸を往復しているのが、潮田又之丞である。いわゆる円山会議の結果を持って江戸に「内談」のために下った潮田が江戸に着いたのが8月12日、いわゆる浅草舟中会議で江戸組の結束を確認した後、江戸を発つのが17日。江戸下りは堀部安兵衛が同行、そして上京には一人では如何かという吉田忠左衛門の配慮で近松勘六が同行している。(『寺坂信行筆記』)子供ではあるまいし、“一人では如何”とは過保護のようだが、機密書類を携帯しているとすれば用心に越したことはない。

 この時に潮田に託された堀部弥兵衛の書状の控えが『堀部弥兵衛金丸私記』に収められている(『史料』上p226)。8月17日付けのこの書状には「御手前様思召之御底意…御尤至極、大慶」と大石の決意を歓迎する文言だけが見えて、延引反対の意思表明は見られないようではある。しかし、“潮田等が持ってきた手紙への返事は別紙連状で申し上げる”という記述は、延引方針反対を表明した江戸からの回答が吉田忠左衛門・堀部弥兵衛らの連紙であったという『江赤見聞記』の記事と照応する。また追啓に見られる「壱人も不残討死と堅相究候事、可為本意」という文言は、『江赤見聞記』に見られる「敵方用心きび敷候はゞ、何も討死さへ仕候へば事済と申物」という延引反対の論理を思わせる。この書状とともに送られた弥兵衛の討ち入り計画案(「存寄之寸志」)と思われるものも収載されているが(同pp222-6)、その中には大石早々の江戸下りを期待する文言や、大石が目立ってはいけないという「多分之了簡」が遠慮に過ぎるという批判が見える。A延引反対の意思表明は、浅草舟中会議における江戸在住の同志の結束確認と同時であったと考えられる。

 とすれば、@東下延引決定はいわゆる円山会議においてであった可能性が高い。大学左遷の報を受けて催された円山会議に、小山源五左衛門・進藤源四郎が姿を見せなかったというのは『赤城義臣伝』の説であるが、その根拠は必ずしも明確でなく、信頼してよいか疑問を持たざるを得ない。上述の通り、小山・進藤らは寺井玄渓の説得にあたるなど、8月中は幹部として行動している。むしろいわゆる円山会議にも出席し、決行方針に従いながらもなお慎重論を唱えていたと考えた方が整合的である。ほとぼりをさましてから来春下向しようという延引方針は、いわゆる円山会議における復讐決行決議の付帯事項だったと思われる。恐らく敵討の実施方針を明確にするとともに、東下については慎重に対処したいという意向が示されていたのであろう。
 『江赤見聞記』の筆者は進藤・小山らと親交があったらしく、彼らに同情的である。このあたりの事情は、恐らく彼らの言い分を聞いて整理している。だから、延引方針のほうに力点をおいた叙述になっているのであろう。江戸組の感覚では、実施方針が明確に打ち出されたことの方が重大だった。延引論=慎重論は江戸の状況(吉良方の警戒が厳しいという風評)によるものだから、その懸念を払拭することができれば問題にならないと思ったのだろう。弥兵衛の書状が大石の決意を歓迎する趣旨で書かれているのはそのためだと考える。

 神文返しに先行する長沢の脱盟には、このような前提がある。長沢の場合には、決行決議への反対を表明したものだった。既に述べたとおり長沢の行動は穏健派=慎重派と気脈を通じての行動だった可能性が高い。一見同志のようであっても全員が決起に賛成している訳ではないぞという、揺さぶりであったのではないか。長沢の請求を承けて、他の者へも神文返しが実施される。
 もちろん、やる気のない者まで引き連れることはかえって危険である。浅草舟中会議にも心根の怪しい者は排除されており、酒寄の脱盟もそういう流れの中に位置づけることができる。同志の選別は必要であったには違いない。しかし、神文返しの結果同志が大幅に減少すれば、一挙ができなくなる可能性もないではない。何とか理由をつけて中止に持ち込もうとする小山・進藤グループとの微妙な関係の中で、そして恐らくは小山・進藤の路線に近い形で、神文返しは実施されたと思われる。大高・貝賀にあてた指令書の中で、又之丞が戻ったらすぐに知らせるから先にそちらに来るように、と言っているのも、その現れであろう。潮田の報告(想定される江戸からの強い東下要請)を得れば、神文返しの方針に変化が生ずる可能性があったのである。

進藤の脱盟には浅野本家の家臣である伯父・進藤八郎右衛門からの圧力が与っていることが知られている(『江赤見聞記』)。八郎右衛門は仮船奉行として大学を迎えに伏見に来ていた。大学の伏見着が8月13日であるから、八郎右衛門と源四郎が接触したのは13日以前の数日間のことであると思われる。浅野本家を背景にした小山・進藤一族の圧力がかかっているのである。大石としても全く無視はできなかったに違いない。

 『江赤見聞記』ではに従えば@延引方針決定の時点で奥野将監が加わっていたように書いているが、神文返しの対象になっていることから考えて、それはないだろう。はずだが、その後離京している(大石が寺井玄渓の同行を謝絶した書状=同書所収。なお、この部分の誤りについては塩田一樹氏から御指摘を頂いた)。この時期、奥野は上京せずに播州亀山にいたのであろう。先に保留しておいた山城金兵衛宛の書状の問題を考えてみよう。神文返しと別に書状を送ったとしても不思議はないが、なぜ名義を使い分けたのか、という点である。これは、吉田忠左衛門が敵討のための行動を開始した時点で変名を使用した(拙稿「吉田父子、敵討モードへ」)のと同様の意味があるように思われる。山城金兵衛名は復讐計画のためのものであり、奥野将監名で提出された誓紙は返却するが、改めて同志として活動してもらいたい、という要請が書かれていたのではなかろうか。さきの山科会議を吉田忠左衛門の投入で無事におさめたのと同様に、奥野将監を登場させることで危機を乗り越えようとしたものと想像できる。
 この仮説が当たっているとすれば、大石の目論見は外れたことになる。奥野は脱盟し、同志の結束は動揺した。これが『江赤見聞記』にいう「もめ合」の状況である。奥野の驥尾に付す格好で、進藤・小山ら幹部クラスの脱退が相次ぐ。大石は小山・進藤に翻意を促すが断られ、一族の多くを欠く不本意な形で復讐計画を進めざるを得なくなるのである。
 奥野については、後に翻意して参加しようとしたが、途中で発病して果たさなかったという説がある。奥野の場合は、小山ら確信犯とは異なり、遠隔地で十分に意思の疎通ができなかったことに脱盟の主因があったのかも知れない**。神文返しという手のこんだやり口に奥野が不信感を抱いたのだとすれば、小山・進藤の作戦勝ちという評価も成立しよう。

伊東成郎『忠臣蔵101の謎』p282。なお、根拠とされている佐倉新助の書状は、『赤穂義人纂書』に「無名氏書簡」として収録されているものであろう。
**
奥野が大石等と直接面談した可能性はもちろん否定できない。奥野の脱盟についてはなお問題が多いようだが、後考を俟ちたい。

(4)むすびに

 本稿では、脱盟届を日付順に整理することにより、神文返しによる淘汰と「もめ合」による自発的脱盟とを区別すべきことを明らかにした。さらに、いわゆる円山会議から大石東下にいたる時期の政治過程を考察した。必ずしも完全に論証できたわけではないが、新しい可能性を提示したつもりである。当否は、読者の判断に委ねるほかはない。
 赤穂事件はあまりに劇的なので、すべてが大石の計画通りに進んだように思いこんでしまいがちである。しかし、神文返しは必ずしも大石の本意でなかった可能性がある。まして、その後の「もめ合」は全く計画外のことであり、多くの血縁者が脱盟したことを討入後も恥じていた(『堀内伝右衛門覚書』など)。大石の失敗を論うことは、彼を貶めるものではない。むしろ、予想外の障害にも屈せずに初志を貫徹した意志の強さに、改めて感服する。
 脱盟者の側についても、十把一絡げに「不義士」で片づけてしまうのではなく、個別の事情を子細に見ることによって、当時の武士を拘束していた様々な規範を明らかにすることができるであろう。本稿の検討が、その一助になれば幸いである。

(付記)
その後奥野将監の動向について「熔けた鉄心」「続・熔けた鉄心」を草した。本稿の記述を補い、一部修訂する必要があると思っているので、併せてお読みいただきたい。