大石内蔵助の最後通牒

田中光郎

1 大石の大垣旅行

 従来の赤穂事件研究ではあまり注目されていないことだが、元禄15年の夏に、大石内蔵助は小野寺十内とともに大垣に出かけている。確かな時日はわからないが、『預置候金銀請払帳』(義人纂書補遺所収)の中村勘助白河行きと遠林寺祐海江戸行きの間に旅費の記録があるので、大体15年の4〜5月のころと推定できる。
 これがカラ出張でなかった証拠が、『未刊新集赤穂義士史料』に収められている。出所を必ずしも明示していないという弱点はあるが、良質な史料を集めたこの本の316頁にある、鹿野治部右衛門宛4月25日付けの書状がそれである。
 念のために確認しておくと、鹿野は大垣藩・戸田氏定の家臣であり、浅野家改易の折りには使者として赤穂に来た一人である。この書状は、京に出発する朝に書いた、別れの挨拶状である。元禄15年4月24日夜、大石は大垣にいた。

【注】
もっとも、同史料集に山科で書いたと見られる4月26日付けの大石書状(小坂為作宛、319頁)も収められている。25日朝に大垣を発てば26日夜に山科にいることは不可能ではない。若干疑問は残るが、書状そのものを否定する根拠にまではなるまい。

 大石の大垣行きの目的は、戸田権左衛門(戸田家老、開城を見届けた)との会見であった。会見の目的は戸田氏定に「大学殿面目茂有之人前罷成候義」を願うためである。いわゆる御家再興運動=浅野家名誉回復運動の一環である。

2 吉良隠居の意味

 大石の運動については別稿(「いわゆる浅野家再興運動の性格について」)にも述べたので、何をいまさらという感じを持たれるかも知れないが、この時点、つまり、吉良上野介が隠居(元禄14年12月11日)した後で行われているという事にも注意しておきたい。
 浅野大学を名目人とする名誉回復には吉良上野介の処分が必要だという認識は、浅野家旧臣の中でほぼ一致した見解であった。吉良の隠居はこれ以上の処分のないことを意味し、したがって名誉回復がなされないということを意味した。だから、堀部安兵衛などはすぐにも一挙決行といきり立った。この認識は大石でも同様であり、「一儀取立申にて可有之候」と書き送っている(12月25日付け書状、『武庸筆記』)。これは決して堀部らあての取り繕いではなく、寺井玄渓にも「此上とかく了簡も無之事に候。弥存立の外無之候」と言っている(同日付け、義人纂書所収。なおこの書状については偽作説もある)
 しかるに、この期に及んで大石はなお、大学の人前がなるようにという運動を継続している。主張のトーンはほとんど変わっていない。堀部らには理解しがたいことであろうが、大石の心事は「木挽町御安否承届、弥被仰付候品も無面目次第に罷成候上に事を破り候段、至極之図と存候」(2月16日付け書状『武庸筆記』)という一文に示されている。この運動は敵討ちの実現に至る手続きに過ぎない。要求が無理なことは、14年3月29日に嘆願使を派遣したときから、誰よりもよく承知している。だから、吉良の隠居は一つの里程標ではあっても、決定的なものではなかったのである。

3 芸州何某への書状

 吉良隠居後、大石がなお名誉回復運動を行った相手は戸田家ばかりではない。同じく『未刊新集赤穂義士史料』に収められた、3月27日付けの書状である(323頁)。宛名は芸州何某様となっており、誰だか確認することはできないが、井上団右衛門ではないかと思われる。

【注】
宛名が何某になっているのは筆写者が隠したものであろう。同様に何某あてになっている書状が、(14年)12月15日付けおよび(15年)12月14日付けの2通あり、いずれも御家再興=名誉回復運動に言及しており、同じ出所と推定できる。その最後のものに「落合与左方へ頼、貴様へ之状一封進申候」とあるが、15年11月29日付けで大石が落合与左衛門に送った手紙(『江赤』)に「井上団右衛門殿え紙包一ツ、慥に御届可被下候」と照応するのではないか。先に見た戸田家の場合でも、開城に関与した人に訴えかけているので、井上に働きかける公算は高い。

 これによれば、3月23・24日に大津石部で寺尾庄左衛門・戸島保左衛門(芸州家老、開城に関与)に「大学人前も罷成候様ニ」芸州公から取りなしてもらうように、と依頼している。「万一閉門御免ニ而し人前茂不罷成無面目次第ニ候而は何共難止儀に御座候」という趣旨の書付を渡したという。その写しも収録されている(327頁)が、「去暮上野殿隠居家督相続被仰付之上ハ大学人前可被勤様無御座候間、一途ニ相手方へ存念達可申旨、家中之者共憤申候得共、只今卒爾之働有之候而ハ大学為ニ不相成候間、御免之期ヲと暫見合申様ニ与色々申宥、差留置候」と、ほとんど脅迫するような文面になっている。
 世上に流布する物語では、大石は敵討ちの意図を押し隠していたことになっているが、ここではむしろ大学名誉回復のための交渉材料として積極的に利用されている。前年6月に遠林寺祐海に指示した運動方針にもあったことではあるが、ここでは大石自らそれを実行しているのである。しかし、名誉回復が不可能であるという認識のもとにやっているとすれば、交渉というのは不適当かも知れない。感覚としては、最後通牒に近いのではないか。この最後通牒の回答期限は、浅野大学閉門赦免の時である。その時点で名誉回復がならないのなら相手方へ存念を達しますよ、と宣言したうえで、それを実行に移すことが大石の「至極之図」であった。

【注】
最後通牒という表現は、吉良方に対する宣言ではないのだから、いささか穏当を欠くかも知れない。条件がクリアされなければ闘争状態に入る宣告という意味で、この語を用いたのである。

 最初に触れた鹿野あての書状でも、大石はかなり濃厚に敵討を匂わせている。恐らく相手によってニュアンスを変えながら、一挙を宣言しているのである。広島藩や大垣藩は、敵討の意図があることを知っていた。進藤源四郎の脱盟は芸州藩士である伯父・進藤八郎右衛門の説得によると言われるが(『江赤見聞記』)、もしそうなら大石にも多分に責任がありそうである。

4 堀部の新党模索

 大石最後の御家再興運動は、遠林寺祐海の江戸再派遣であるとされる。祐海は5月24日に江戸に着き(『寺坂信行筆記』)6月12日に発っている(『武庸筆記』)。西へ出発する祐海に託した手紙(原惣右衛門ら宛)の中で、堀部安兵衛は「今以内通向之縁を取、手入有之」という大石のやり方を「苦々敷儀と存候」と批判する。そんなことはできるはずがないではないか、そのことは「手入才覚之方」すなわち大石が一番よく知っているではないか、と堀部は言う。まさにその通りなのだが、それでも大学の安否を見届けてから実行しようというのが大石の立場である。これが堀部には理解できず、分派・新党づくりを模索することになるが、その動きについては、稿を改めて考えることとしたい。
 大石の論理は確かにわかりづらく、堀部の不満の方が理解しやすい。しかし、それでも大石はこうしなければならなかった。あくまでも、開城の経緯にこだわり続ける大石の姿が、ここに見られるのである。