原新党の可能性

田中光郎

はじめに

 元禄15年夏頃までに、敵討ちを延び延びにした大石に対する堀部安兵衛らの不満は頂点に達し、原惣右衛門を首領とする新党設立の動きがあった。決裂直前に大学左遷の報が伝わり、危機は回避された。ということに、通説ではなっている。以上の動きは『堀部武庸筆記』所収の書状から読み取ることができるため、ほとんど疑う余地のないものとして扱われて来ている。『武庸筆記』の史料的価値に異議をさしはさむつもりはないが、別稿(「堀部安兵衛の人物像について」)でも述べたように堀部には若干独善的な傾向があるので、取り扱いは慎重にした方が良い点もある。そんな観点からこの新党設立の動きを再検討してみようと思うのである。  なお、以下の行論で『武庸筆記』による場合は必ずしも注記しない。また、テキストとしては、『近世武家思想』(日本思想体系27)所収のものを使用する。

第一 ここまでの動き

 ことの順序として、ここまでの動きを復習しておく。

(1)赤穂開城といわゆる「御家再興運動」の開始

 浅野長矩刃傷事件の後、吉良義央生存を知った在赤穂の藩士の内には、むざむざと城を明け渡すのは無念であるという意見があった。その中心が家老・大石内蔵助であり、大野九郎兵衛を中心とする反対派を抑えて、家中の納得する筋を立ててくれるようにという嘆願使(多川・月岡)を派遣した。これは未遂に終わるが、受城目付に対し、舎弟・大学の閉門御免の節に面目の立つようにしてほしいという嘆願を行い、大石は辛うじて条件付き開城の形をとることに成功した。

(2)堀部安兵衛との齟齬

 刃傷事件当時江戸にあった堀部安兵衛らも、吉良生存を知り、そのままには済ませがたいと同志を募って吉良邸に切り込もうと図ったが、人数が集まらなかった。ちょうど嘆願使が江戸に着いたこともあり、不満分子が多い様子の赤穂に急行することにした。到着したのは開城方針が決まった後だったが、「これきりにはしない。後の含みもある」という大石らの言葉に、我が意を得た思いで帰府した。
 大石としては、開城のときに条件とした大学閉門赦免時の処遇を見届ける積もりであったが、堀部の理解ではその部分が欠落していた。だから14年5月以降、大石に下向(敵討決行)を要求し続ける。大石は、原惣右衛門・進藤源四郎らを江戸に差し向けてなだめようとするが、うまくいかず、結局自ら江戸に出ることとする。

(3)大石の第一次出府

 11月2日、大石は江戸に出た。11月10日に行われた会議で、一周忌を目途に一挙を行うことを申し合わせたことが、堀部の記録から確認できる。また、大石の「御家再興運動」が浅野家の名誉回復運動であることの確認がとれたのも、この出府時であると考えられる。これ以前の書状において、堀部は大石の行動をもっぱら主家再興運動としてとらえているが、この第一次出府後の記述の中で次のように述べている。

内蔵助始て家中同志之輩、城離散之砌之存念は、大学殿たとひ御身上如何程にかろく被仰付閉門御免被遊候共、其段は毛頭存念無之候。上野介方へ御仕置不被仰出候得ば、離散之砌御目付中へ奉願候意趣立不申候。其上大学殿御免被遊候ても人前難成候て、先方へ御仕置不被仰出候はゞ、其時は前後不被顧時節、鬱憤散申存念也。

(4)吉良上野介の隠居

 大石は11月23日に江戸を発った。その後、12月11日に吉良の隠居が認められる。大石にとっては計算外だったと思われるのだが、上に述べた御家再興=名誉回復運動についての合意が、逆手に取られることになる。吉良が隠居した以上もう処分は行われないのだから、「離散ノ砌ノ存念」は達せられないことは明白である、だから敵討に踏み切る、というのが堀部の三段論法的主張である。
 大石としては、大学閉門赦免時の処遇を見届けるというのが、不名誉な開城を甘受する口実だった訳だから、見届けないうちは動けない。元々敵討をする積もりでいた(と思われる)大石シンパの原惣右衛門・大高源五らの立場はいささか微妙になる。このへんから、いよいよ本題である。

第二 堀部安兵衛の視点を中心に

(1)吉良隠居の報

 元禄14年12月11日の吉良隠居をうけ、堀部安兵衛・高田郡兵衛・奥田兵左衛門の三人は早速行動を開始する。先に東下していた上方グループで家屋購入のために残留していた原惣右衛門・大高源五を訪ね、「此上は何れ了簡も無之義」と言ったところ、原も「成程其通に存候。兎角来春御登候ヘ。於上方同志之面々打寄相談申、春は何も早々罷下候様に可申談」と答えたという。このあたりは、また原の動きを見るときに考えることとしよう。
 吉良隠居の旨は12月15日付けで、原・大高から大石に伝えられた。原らは12月25日に江戸を発ったが、その直後、27日付けで堀部らは3通の書状を出している。一通は大石内蔵助宛、一通は潮田又之丞・中村勘助・大高源五宛、一通は原惣右衛門・大高源五宛になっている。内容を見れば、この時点で上方連中も一挙に踏み切るものと楽観視していることが知られる。(なお、この3通の書状に高田郡兵衛が判形せず、脱盟問題が起こっていたことがわかるが、当面は深入りしない)

(2)危機の萌芽

 しかし、原から吉良隠居の報を得た大石は、12月25日付けで(つまりこれと入れ違いになる格好で)安兵衛ら3人宛、及び弥兵衛宛の2通の書状を送り、軽挙を戒めてきた。三人の急進派を下手大工になぞらえた有名な手紙である。一連の文書の中でも冗談口をたたいているのは珍しく、暗号(隠語)を使う必要があったことに加え、ユーモアで気負いをはずそうという意図があったのではないかと思われる。念のため付け加えておくと、大石も「一儀取立申にて可有之候」と決意は表明しているのであって、吉良隠居が一つの区切りであるという認識は共有している。ただ大石は「木挽之様子」すなわち浅野大学の結論にこだわらざるを得ないのである

なお、これについても堀部は大石の真意を誤解している。隠語を用いたために意味が分かりづらくなった事は確かだが、大石はあくまでも大学の首尾を見届けることを言っているのであるのに対し、堀部は大学の意向を気にしていると読みとってしまった。

 この手紙は1月17日に高田郡兵衛の元に届き、26日付けでかなり激烈な調子の反論が安兵衛・兵左衛門連名で送られた。同じ日付の弥兵衛から大石への返書の中でも、不平が陳述されている。
 同じ元禄15年1月26日付けの書状(堀部・奥田→原・潮田・中村・大高)では、大石の書状を「何共被為思召切御心底共了簡難仕御文言」と批判して、一字も違えずに写しを送るが皆大石に同意なのか、と糺している。さらに同じ日(22日になっているテキストもあるが、4名宛書状の次に載せられているので、26日を正しいとするべきだろう)、堀部1名で小山源五左衛門にあてて「是非御世話やかれ、急に思召立候様に可被成候」とせっついているのだが、これに続く文言が穏やかでない。「内蔵助殿御承引なく候ても廿人有之候はゞ、三月中に是非押込、父子の首は此方之者と存罷在候。哀誰ぞ被存切、早々御下向候へかしと存、此度も銘々に書通仕候。」大石でなくとも、誰かリーダーになってくれれば、というのである。この時点で堀部が分派を計画しているとまでは言えないが、その可能性を考え始めている。

 場合によれば分派行動を、という話は原・大高が江戸を出発する前にあったことはあったようである。先に述べた小山宛の書状にも、潮田又之丞らと「乍心外内蔵助殿手を切候て成共」と申し合わせたとあるし、原らの書状にもしばしば同趣旨の発言が見られる。ただ、それを言うのは決意を促すためという意味が強かったのではないか。少なくとも、15年春の段階では、本気で分離を企てていたとは思われない。
 1月9日に京に着いた大高から、11日・14日にもった会合が思わしくないことを伝える書状(17日付け)が届いたのが、同月27日。恐らく同じころ、原からも同様の書状が着いている。さらに、大石から再度の鎮撫状があり(1月25日付け)、原からも(1月24日付け)大高からも(2月3日付け)すぐには動きそうもないことを知らせてきたので(着いたのはいずれも2月11日なので同便であろう)、堀部・奥田は「畢竟所存捨申にても無之、待にくき所を待、恥多して時節を相待申も勇義にても可有之候」とトーンダウンしている。
 堀部らが断念したことを、大石は知らない。1月末から2月にかけて上方首脳陣が相談した結果、吉田忠左衛門が近松勘六を伴って江戸に下ることとなった(このあたりについては後でもう少し詳しく触れる)。2月21日に京都を出発した吉田・近松は3月5日に江戸に到着。この時に両名は大石の書状(2月16日付け)、原・潮田・中村・大高からの書状(21日付け)を持参していた。ニュアンスの違いはあるが、ともかく大学の処遇を待つように、ということになる。これを承けて、3人(堀部父子・奥田)も同意をしている。
 この時点でいったん分裂の危機は回避されたように見える。

(4)原惣右衛門新党樹立の呼びかけ

 4月2日付けの原惣右衛門の書状が堀部のもとに着いたのは、同月28日のことである。この中に問題の呼びかけがある。本稿全体の鍵となるものなので、いささか長く引用することを許されたい。

一 御免之上、此方申合候者共納得可仕筋見へ不申候時、先方え手を掛候ては、御立被成がたき事、歴然と存候。其時に至ては、不及是非、一分の所存を立候迄に被存候事、頭立候者共自滅仕外無之と存る事に候。然共此段しりぞひて愚按考申候に、僅にても色品付候ては、此自滅も障り申間敷物にても無之候。畢竟殉死穿鑿之様に罷成候時は、如何と申批判付候ては、此段もすみやかに所存之通に難成と存候。於此所愚意了簡御座候。尤此儀、源四郎を初外へは曽て不申談候。愚意心中に秘し罷在候得共、其元御両所様之儀は、慥に可申合存念に付、如此御座候。右之通之次第に罷成候はゞ、旧冬噂之様に申達候通に、上方申合之群をば穏密に引はなれ、可遂宿意と存候。内蔵助殿初其外之上方者共大勢是を除候時は木挽町御咎めは有之間敷候。障り申間敷と存候。

 原の主張は、もしも大学が赦免されたが名誉回復のならなかった時、に限定されている。大学にわずかでも所領が与えたなら、長矩旧臣が吉良に手出しをする訳にはいかないだろう。その時には主立った者が自害をするほかはないだろうが、それも禁止されている殉死をしたように受け取られれば、やっかいになる。だから、そういう事態になったら、去年噂のように話をしていた分派を実行しよう。これが原の提案である。
 原がこの提案をした理由はまた考えるとして、「右之通之次第に罷成候はゞ」という文言は、かなり重要だと思われる。堀部の意識にはこの条件節は残らなかった。すぐにも新党が発足するようなつもりで「誠以本望之至不過之」と返書を送っている(5月3日付け)。原がこの齟齬に気づいたかどうかはわからない。まだ堀部から返事がつかないという原の手紙(5月20日付け)を最後に、『武庸筆記』は終わっている。新党設立のために江戸を発つ予定だった安兵衛は、この手紙には返事を書かなかった。そして、彼が上方に着くころには大学の処分が決定され、対立点そのものが消滅してしまった。
 浅野家旧臣の方の問題は自然に解決してしまった訳だが、我々の問題は未解決である。原惣右衛門は本当に分派・新党を計画したのか。原・堀部のラインで新しい組織のできる可能性はあったのだろうか。この問題を考えるためには、原の視点から事態を整理してみる必要がある。

第三 原惣右衛門の視点から

(1)原・大高の江戸残留

 話はいったん元禄14年の冬に戻る。
江戸急進派の鎮静に向かった原惣右衛門、進藤源四郎・大高源五らが堀部に説き伏せられ、いわばミイラ取りがミイラになったために、大石も出府しなければならなくなったというのが、通説ではある。しかし、その根拠になっているのは『武庸筆記』であり、前掲別稿でも述べたように、堀部のひとり合点だった可能性が高い。大石が江戸を発つ時点で原・大高を残留させたのは、もちろん屋敷購入の目的があったには違いないが、江戸組によりよく大石の意向を反映させるための人選であろう。いわゆる御家再興運動が実は浅野家名誉回復運動であるということを、比較的良く理解していたのがこの二人であったと考えられる。
 それゆえに、吉良隠居の報をもたらした堀部に「此上は何れ了簡も無之義」と言われた時には同意するほかはなかった。「成程其通に存候。兎角来春御登候ヘ。於上方同志之面々打寄相談申、春は何も早々罷下候様に可申談」と答えたのは、恐らく本心であったろう。12月15日付けで大石に事情を伝えているが、大石の感想も「此上とかく了簡も無之事に候。弥存立の外無之候」(12月25日付け寺井玄渓宛書状、義人纂書所収、偽物説もあるが私は信用して良いと思う。上述の下手大工になぞらえた書状と同日である)というものであった。
 この部分では、大石と原・大高(そして堀部ら)の考え方にそれほど大きな懸隔はない。ただし、大石の立場はもう少し複雑である。そのことは、上方に戻った原・大高と大石の応酬が明らかにするであろう。

(2)上方における分裂の危機

 既に述べた通り、原・大高が江戸を発つのは12月25日である。年が明けて1月9日に京に着いた二人は、11日には山科で、14日には京の寺井玄渓宅で、大石等と会合をもった。しかし、上方首脳の手応えは、今ひとつだった。吉良の隠居により決行するしかないと言う認識は共通しているものの、急に事を遂げようという方針にかたまらず、「なまにへ」な状況である(1月17日付け大高書状)。原は堀部等に「兼て御物語申候通、事のはかどり申間敷候はゞ、此方共計も存立意味を以て、上方の者共の所存粗承届候」と書き送っているので、場合によれば分離してでも、という話があったことは確かだろう。ただし、この時点では上方衆の決起をうながすための文脈で用いられており、実現可能な選択肢とは認識されていない。「中々此方計にて其了簡に落可申処、相見不申候故、弥山科衆相談不申候では難成かと存候故、何角とからくり申談置候」と、むしろ分裂しないですむように骨を折っているのが、原の状況である。

1月(日を欠く)原書状。『赤城義臣伝』所引のテキストは1月15日にしている。

 このあたり、上方在住の同志の意向はまちまちであり、不信感がかなり広まっていた。堀部が信頼を寄せていた小山源五左衛門は「内また膏薬か」と酷評されているし、原の実弟・岡島八十右衛門なども疑惑の目で見られている。原の行動は、その中で同志の結束を維持しようとするものである。微妙な現象がある。春には堀部等が上方に登って相談するという申し合わせであったが、原が上京するように連絡しなかったために、これが実現しなかった。これは、連絡なしでも上京する手筈だと、原が誤解をしていたために起こったと説明されている。それを否定する根拠はないのだが、堀部らがここに乗り込んだなら混乱・分裂の危険性は高かったように思われる。結果論だが、原の「誤解」すら分裂回避のために有効に機能しているのである。

 1月17日に大坂に戻った原は、同月24日頃自分の考えを「紙九枚に随分細々に」まとめて大高に託し、これを携えた大高は2月2日(『武庸筆記』所収の2月3日付け大高書状に「昨廿二日」とあるが『赤城義臣伝』所収のテキストにより2日とする方が適当であろう)に山科に出向いた。この時の原の主張は、今後の方針について二者択一を迫るものであった。二者択一とは
a)大学の安否をどうしても見届けるというのであれば、万一閉門赦免のうえわずかでも禄などが付いて敵討が不可能なようであれば、自殺すること
b)大学の安否は見切りをつけて3月頃から復讐にかかること
のいずれかを選ぶというものであった。
 正直なところ、私にはこの二者択一問題が理解できない。このままでは、同じレベルの選択肢とは言えない。選択肢としてはa)あくまでも大学の安否を見届けるかb)見切りをつけて決行するか、でなければなるまい。aを選択する場合の条件として、大学の安否を見届けた結果「敵討」が不可能な状況が生じた場合の覚悟に言及しているものと理解しておく。

 これに対する大石の返答は、もちろん大学の安否を見届けるべきだということになる。江戸で一周忌を期限としたのはその場しのぎだったことを認めた上で、吉良隠居によって名誉回復の可能性は消滅していることも同意し、それでもこれまで嘆願してきた経緯もあるのだからと、結果を見届けるべき事を主張している。そして、原が問題とした点については「縦いか程に高禄に御取立候ても、先方之事、何卒木挽町(大学)之御面目にも成、人前も被成能程之品に於無之は、迚穢たる御名跡を立置候はんよりは、打つぶし申段本望」であるから「宿意を遂候所におゐては、御安否見届候程にとて、少も邪魔になり可申道理無之」と断言する。安否を見届けた上で敵討を実行するのが大石のシナリオであり、名誉回復を伴わない場合はつぶしてもかまわないというのである。
 名誉回復を伴わない御家再興があって敵討が不可能な場合、出家するのか、はたまた自殺するのか。これは当初想定されていなかった問題であり、吉良隠居の事態を受けて浮上してきたものと思われる。これについて幹部クラスには出家説を唱えるものがあったので、原はそれを否定する主張を盛り込んだのであろう。原らが帰京した時点では、議論の主題はa)安否を見届けるかb)即時決行するか、にあったと思われるのだが、「いろいろの了簡」が飛び交って迷走した揚げ句、対立点はaのうちのある仮定の問題にまで矮小化してしまったのである。原はbの即時決行に拘っている訳ではなく、堀部らとは立脚点が違っているだろう。
問題が矮小化されたといったが、それは方針の議論としてのことであって、対立点としての意味は小さくない。開城以来のいきさつをふまえた「覚悟」をめぐる問題だったからである。原が直接山科に出向かず「紙九枚に随分細々に」書いたものを大高に託したのは、小山らと鉢合わせすればトラブルに成りかねないとほど対立が深刻だったことを意味していよう。この問題についての大石の考え方はどうだったかといえば、名誉回復がなければ断固復讐を実現することを宣言しているのだから、原よりも大石の方が急進的とも言える。会議の席で責任ある立場の者は軽々しく口を利かないということもあるので、大石はあまりはっきり物を言わなかったかも知れないが、この時点で、後に脱盟する事になる小山源五左衛門・進藤源四郎らと、大石の意識に乖離が生まれてきているように思われる。

 1月11日の会合に出席していたのは、大石のほか原・大高・小山・進藤・岡本次郎左衛門・小野寺十内・矢頭右衛門七である。大高・矢頭は通常幹部会のメンバーにはならないとして、小山・進藤・岡本と原・小野寺あたりが対峙すれば、膠着状態に陥るであろう(実際にそれぞれがどういう立場をとったかは不明である)。
 注目すべきは、この時期まで播州で待機していた吉田忠左衛門が活動を開始している点である。24日付け原書状に吉田・近松の東下が予告されているので、大石が江戸急進派の鎮撫のために呼び寄せたのは間違いない。(このあたりの事情について考証すると長くなるので、別稿「吉田父子、敵討モードへ」に譲る)  『寺坂信行筆記』によれば、吉田忠左衛門は1月26日に大坂に到着して原と会見し(『武庸筆記』所収の2月21日付け原・大高ら書状によれば20日だが、上述の1月24日付け原書状と矛盾するので『寺坂』をとるべきだろう)、28日には山科で大石と会見している。さらに、江戸に下るについては「同志の衆中心底弥相違無之段」を確認したいという吉田の主張により、京都近辺の同志を呼び出して、いわゆる山科会議が開かれたのである。単純には決せず、吉田の出発は2月下旬までずれこむことになる。  吉田忠左衛門呼び出しの目的は、単に江戸急進派の鎮撫だけではなかったように思われる。むしろ在京同志の結束の乱れを修整し、強硬な態度を維持することが必要だったのではなかろうか。その固い決意の上でなければ江戸組を説得できないという判断があったということはできよう。しかしそれ以上に、組織全体に大石の意思を貫徹させるために、この場面で吉田の力を必要としたのだと思われる。堀部の視点では江戸と上方の分裂の方が重要な問題だが、恐らくより深刻だったのは上方内部の分裂問題であった。そして、吉田忠左衛門という切り札を投入した山科会議で、いちおうの結束を維持することに成功したのである。
その上で、吉田らが江戸に下り、堀部らも態度を軟化させていたので、分裂の危機が回避されたことは、既に述べた通りである。

(3)原の「新党計画」について

 如上の事情を原が総括した文章は次の通りである。

 拙者儀正月罷登申談候処、其許にて申合候意味齟齬、其上衆口区々にて、痴弁之愚拙抔難申説候故、大坂え罷帰、一冊之書付相認差登せ、返答承届度段申遣候処、いまだ返答無之内、吉田忠左衛門罷登候に付、又口談具に演説、忠左衛門致合点罷登申談候処、評議不相済、私罷登候様申来、即日罷登、右一書之儀を以可申談候処、其段納得、寄合候面々皆々尤と同心に候。然れ共去年御目付中え被申達、其段公儀え押出したる儀に候得ば、御免之期待申度候に治定に付き、先頃の通申談候。(4月2日付け原書状)

 さて、こうなると、いよいよこれに続いて示される「新党計画」が唐突なものに思えてくる。既に見た通り、もしも大学が赦免されたが名誉回復のならなかった時、しかもわずかでも禄を頂いて敵討に支障の出る時、に限定された計画である。この問題は大石によって解決済み、すなわち名誉回復を伴わない場合敵討を妨げるものではない、という公式見解があったはずである。

 どうして原がこの問題を今更取り上げてきたのか。これを考える時に、この書状に散見する武林唯七の動向を思わざるを得ない。先に引用した呼びかけの部分に続けて、原は武林の来訪について「此度唯七罷登り、不相変心底にて候。只今も引はなれ候て荷担仕候様にすゝめ申候へども…」云々と書いている。
 ここでいう「此度」とは、不破八左衛門(数右衛門)と同道で3月1日大坂に着いた時のことをいうであろう。これに先だって、大石東下の際の江戸会議にも出席した武林は、倉橋伝助・前原伊助・勝田新左衛門・杉野十平次・不破数右衛門らと浅草の茶屋で誓いを固めていたらしい。1月下旬頃、私用で赤穂に下る予定(不破同行)だった武林に、堀部等も高田郡兵衛脱盟の事情を打ち明けるなど、双方のグループは接近していた。堀部等が激高していた時期の感覚を持って上坂した武林は、上方首脳の対応に大いに不満であって、3月2日付けで吉田等との面会は不要だと堀部らに書き送っている。このあともかなり荒れた模様で、大高源五を腰抜け呼ばわりして喧嘩別れになったことは(5月17日付け大高ら書状)有名である。
 その武林が原に「只今も引はなれ候て荷担仕候様にすゝめ」てきたのである。もちろん原としては「只今引放し申時は、申合候衆中を捨る道理」であるから不可能である。この書状からは武林と原の関係がどうなったかわからないが、原が同意しなかったことだけは確かで、大高との事例から考えてもあまり友好的でなかった可能性が高い。
 原の説明では、その時に武林にこの「新党計画」を打ち明けようとしたが、若い者に話しては漏れやすく、ことにこの計画は「密々上秘候はでは難成」ので明かさなかったのだという。幹部の結論に不満をもらす武林に対しては「又外に私案も可有之間、さのみせく事にて無之候。兎にも覚にも五月六月にはわけしれ申事にて候。夫迄先穏便に在之様に」と言い聞かせた。5月か6月には訳が知れるとは、大学処分についての見通しを示すものであろう。
これで武林が納得したとは思われない。しかし、これを堀部に打ち明けた原の狙いをここに見ることは可能であろう。大学にわずかでも知行が与えられれば「敵討」が不可能になるという懸念は、原のものであった以上に、武林のものだったのではなかろうか。大石の言明にもかかわらずここにこだわる原の真意は、彼が不安である以上に、武林を説得できないという点にあったのではないか。武林が堀部グループと合流して軽挙に走ってはならない。これを食い止めるためには、原が大石と手を切ってでも一挙を実現するという断固たる決意を示すことが必要だった。とにかく、大学の安否を見届けるまで(閉門赦免の際に名誉回復がなされるかどうかを確認するまで)一党の団結を維持しなければならない。
 原は、大石に断固たる意思のあることは疑っていない。ただ、幕府に願った事柄の決着するまで、手続的には行動できない。原のいわゆる新党計画は、悪く言えばそれまでの時間稼ぎである。ただし、虚偽ではないだろう。この新党計画は、あくまでも仮定の上に成り立っている。そうなる見通しが、それほど高くないというだけのことである。堀部がこの運動をどうとらえるかということも、原の責任とは言えない。いずれにしても、原自身がこの時点での分離を考えてはおらず、むしろ分裂を食い止めようとする行動だったと評価できるのである。

おわりに

 この後、堀部安兵衛は上方に向かい、原・大高らと分離計画を詰めた、まさに分裂する直前、大学左遷の報が届いたため、回避されたということになっている。この説の根拠がよくわからないのだが、『赤城義臣伝』以外にはないように思われる。『赤城義臣伝』は名著だが、時々この書だけが伝えている事柄がある。傍証がない限り、著者・片島深淵の想像力の所産である可能性を否定しきれない。堀部の上京でどういう話がなされたか、確実な証拠が出てくれば別だが、残念ながら信憑性が高いとは言えないだろう。原新党が立ち上げられる可能性は、あまり高くはなかったと思われる。

 原惣右衛門の分派計画について、違和感を覚えたのはもう大分昔のことである。開城前最も大石に近い存在だったはずの原が、どうして大石からの分離を企てたのか。そして、その後何事もなかったかのように第一の殊勲者として遇されたのか。本稿は、自分自身の違和感に対する、現時点での解答である。もとより完璧なものだとは思っていない。何より通説と全く反対の結論になったことに、不安感を覚えてもいる。大方の御叱正を賜り、よりよいものにしていきたいと思っている。