熔けた鉄心
奥野将監・脱盟の不思議

田中光郎

(1)はじめに

 先日「ろんがいび」読者の方から奥野将監の脱盟について質問を受けたのだが、満足な答えをすることができなかった。要はよくわかっていないのだが、わかるようになるためには、何がわかっていて何がわからないのかを明らかにすることが必要であろう。そういう訳で、今回はよくわかっていない奥野将監の脱盟について考えてみたい。

 奥野将監定良は『大石家外戚枝葉伝』によれば中村一氏の一族・中村奥右衛門の末裔である。奥右衛門の子・中村半左衛門改め山城半左衛門が浅野長直に仕え奥野将監尚次となる(祖父、実は曾祖父)。その養子(実は外孫)が朝比奈金兵衛良信の次男・奥野将監定次で家老まで勤めた(父)。その子がすなわち将監定良(初名・長大夫)である。享保12(1727)年に82歳で没しているから、逆算すれば正保3(1646)年の生まれ 、元禄14(1701)年浅野家断絶のみぎりは56歳ということになる。母は大石八郎兵衛信云の娘(『大石家系図正纂』によれば名は奈津、正保4年に嫁したことになっているので、若干齟齬する)だから、定良は大石無人の甥、大石瀬左衛門の従兄にあたる。
 将監定良は父の跡を継ぎ1000石で組頭を勤めていた。浅野長矩刃傷事件の後、組頭級の重臣の中でただひとり大石内蔵助に従い、大野九郎兵衛の逐電後は家老代理として振る舞った(このあたり拙稿「赤穂城の政変」)。一党の副頭領と言ってよい存在だったが、浅野大学の閉門赦免後脱盟してしまう。神崎与五郎は彼について、「奥野将監、始め義を逞しくし、祖・山城半左衛門の武功を貴ぶ。然るに其の鉄心忽ち鎔けて、空しく不義の泥水に入る者也」(『赤城盟伝』)と述べている。彼の鉄の心はどのように熔けたのだろうか。

奥野尚次=定次
◇◇◇◇◇◇‖─定良
大石信云┬奈津
◇◇◇◇├無人
◇◇◇◇└信澄─信清

(2)大学赦免後の動き

 浅野大学の閉門が赦免となったのは、元禄15年7月18日のことだった。吉田忠左衛門はすぐに在京の実弟・貝賀弥左衛門に手紙を送り、同22日には大石の知るところとなった(『浅野内匠家来松平隠岐守殿江御預一件』、以下『一件』)。22日に京都にこの知らせが着いたことは、堀部安兵衛の証言もあるので(11月20日付、青地与五兵衛宛書状。同日付、溝口祐弥ほか宛書状。いずれも『赤穂義士史料』下所収)間違いなかろう。さらに19日付けの吉田書状が24日に大石のもとに届き、大石は横川勘平を江戸に派遣して、上方の同志の下向を待つように指示している(『一件』)

 『江赤見聞記』(以下『江赤』)が大学の閉門赦免の報を受けて「至極時節」になったから江戸下向の方針を定めたというのは、おおむねこのあたりに相当するであろう。同書はこれに続けて、粕谷勘左衛門の婿が伏見奉行・建部内匠頭家中にありそこから情報が漏洩したらしいこと、関所での浪人改めが厳しいという風説があったこと、吉良方が警戒厳重であるらしいことなどを受けて、「奥野将監・進藤源四郎・小山源五右衛門・川村伝兵衛」などがほとぼりをさましてから来春のことにしようと頻りにいうので、大体はそのように決したという。この延引方針については他書に見られない。一般に通用しているのは『赤城義臣伝』の記述にある、7月28日のいわゆる円山会議で至急下向に決定したという理解である。だが、諸史料を勘案すると、『江赤』の所説の方が実際に近いだろう。いわゆる円山会議(円山で開催されたかどうかは別にして)においては、決行方針とともに延引方針を採用したと考えられる。
 いわゆる円山会議の結果をもって江戸に下った潮田又之丞が、堀部安兵衛と同道したことは『寺坂信行筆記』にも見える。ところで堀部の書状(前掲)によれば8月2日に出京、10日に江戸着とある。『寺坂』によれば12日に江戸に着いたようにも見えるが、これは大川舟中会議の日付と見た方がよさそうである。ともかく江戸の面々は大川舟中に会議を持ち、決行方針を確認する。8月17日付で堀部弥兵衛が大石にあてた書状が『堀部弥兵衛金丸私記』に収録されているが、これには次のような意味深長な文言が見える。「潮田・安兵衛を江戸に遣わしたことに関する返状は別紙連状に譲る、大石の底意は潮田・安兵衛から聞いて喜ばしい、別紙には各々の了簡を受けて表向きばかりを記した」。これだけを読んだのではわかりづらいのだが、『江赤』の記述と引き合わせてみると少しわかってくる。『江赤』によれば、延引方針を受けて江戸の同志が相談した結果、堀部弥兵衛・吉田忠左衛門の連状で延引反対を言ってきたので、大石は進藤源四郎等の申し分を聞き入れず急進論に決したとある。併せて考えれば、会議の結論に従って延引方針を江戸に申し送ったけれど、大石の「底意」はこれと異なっており、弥兵衛・吉田らは大石の内意によって延引方針反対を主張したと解することができる。それによって上方を自分の思う方向に導こうとする政治家・大石のしたたかさを見る思いがする。

 ともかくも、8月上旬まで小山源五左衛門・進藤源四郎等は会議を欠席するどころではなく、むしろ主導権を握っていたと見られる。で、奥野将監であるが、いちおう小山・進藤らと行動を共にしているのだが、若干ニュアンスが異なる。8月6日付で大石が寺井玄渓に送った書状がある。医師の身で東下に同行しようと言い出した玄渓を慰留したものだが、説得使には小山・進藤のほか原惣右衛門・小野寺十内・河村伝兵衛があたっている。この時点での上方幹部が名を連ねている訳だが、奥野将監の名はここにない。先頃上京して玄渓の件については同意見だったので、大石から説得するようにくれぐれも言い置いていったとある。恐らくいわゆる円山会議で延引方針を決定した後、京を離れてしまったのである。理由は不明であるが、この時点で主張していた延引論が通っているのであれば、喧嘩別れをした訳ではあるまい。何か他の事情があったものと思われる。

(3)本家の圧力

 進藤源四郎の伯父にあたる進藤八郎右衛門は、広島藩の仮船奉行として浅野大学を迎えに来たものだが、一挙について源四郎から聞き出した上で、思いとどまるように説得した。源四郎はこれに説得され、大石内蔵助・奥野将監・河村伝兵衛・小山源五左衛門にもこの旨を語ったという。これを源四郎の作り話だとすべきだとは思わないが、八郎右衛門(によって示された本家の意向)をだしに大石を説得しようとしたことも否定できまい。大学の伏見着が8月13日(『浅野長矩伝』、『史料』中)であるから、八郎右衛門と源四郎が会ったのはその数日前のことであろう。

 上述の通り、将監は8月6日以前に離京しているから、進藤が語った面々の中に彼の名が含まれているのは不審である。八郎右衛門がかなり早い時期に京都にやって来ていたか、それとも再度上京していたか、あるいは…。疑問の残るところである。

(4)神文返し

 丸亀にいた里村津右衛門・長沢六郎右衛門が上京して判形の返却を要求したのが8月15日である。ついで8月23日には灰方藤兵衛の脱盟届けが提出される。こうした動きを受けて大石はいわゆる神文返しを実行する。貝賀弥左衛門・大高源五に同志の間を回らせ、神文を返却させたのである。神文返しについては、志のしっかりした者を選び出そうとした、淘汰を行ったものであると一般に言われている。『一件』にそういう趣旨の説明があり、それを裏付ける大石から大高・貝賀にあてた指令書も残されている。
 8月23日付のこの指令書は、本文である返却対象者のリストと、それに続く説明等から成っている。その説明の中で大石が「腰抜」で一挙を中止したと伝えるようにとあり、上述の淘汰説を裏付けている。しかし、いわゆる神文返しは大石単独の行動ではなく相談の上でやったことであり(『一件』)、しかもその相談には岡本次郎左衛門が噛んでいる(上述指令書)。神文返しは単純に敵討積極派の行ったこととは言えず、むしろ消極派の主導権のもとにあったのではないかと思われる。大石は名前を切り抜くのに時間がかかるといい、潮田又之丞が帰って来たら人をやるから戻って来いという。神文返しをしたくないようにすら見えるのである。

 その返却対象者のリストの筆頭にあるのが、奥野将監である。大幹部であったはずの奥野が、志が堅固かどうか試される立場にあったことになる。将監がこの時に脱盟したのかどうかも判然とはしない。ただし、この返却リストに名があるうち、この時点で脱盟しなかったことが明らかな不破八左衛門(数右衛門)・矢野伊助を除く前野新蔵・井口半蔵・木村孫右衛門・榎戸新助が、いずれも『江赤』の「口上にて断有之分」に載せられ、将監も同じ扱いであることを考えると、同様に神文を受け取って脱盟したという形になったとも思われるが、神文返し自体の位置づけが不十分なので、これ以上の考察はむずかしい。

 拙稿「東行違変の舞台裏」でも示したように、ひとつの仮説は持っている。小山・進藤ら消極派は、長沢らの申し出を契機に大石を断念させようと目論み「同志の結束に不安がある」という理由で神文返し方針を大石に了承させる。この時点で副頭領ともいうべき奥野将監は在京していなかったので、神文返しは将監も対象に含めて行われた。大石はもとより将監の脱盟を望んではいなかったので、同時に敵討用の暗号名「山城金兵衛」あてに書状を送って上京を催促したが、大石の意図を十分には理解できなかった奥野はこれに応じなかった。ざっとこんな筋書きなのだが、成立するための前提が多くて、現時点では確信は持てない。第一に、神文返しが小山・進藤ら消極派の主導権のもとに行われたものであるという前提が必要である。第二に、奥野将監が在京せず神文返し方針の決定に関与できなかったという条件がいる。第三に、指令書に見られる山城金兵(衛)が将監の変名だということが確認されないと困る。今の時点では、よくわからないという他はない。

補論 山城金兵衛について

 前掲拙稿では指令書に見られる「山城金兵」を奥野将監の変名だと書いたのだが、その証拠があるかと聞かれて、困ってしまった。先人の説であることは確かなのだが(例えば佐佐木杜太郎氏『大石家義士文書』の注)、史料的な根拠は分明でない。
 状況証拠は揃っている。山城半左衛門は彼の養祖父、朝比奈金兵衛は実祖父である。2人の名前を併せて山城金兵衛を名乗るのは自然なことだろう。『江赤』巻四には同志のリストがあるが、これは『堀部弥兵衛金丸私記』のリストとほぼ一致しており、原資料が共通であるなどの関係があるものと推定できる。違いとしては名前の文字が若干違ったり、順番に多少の出入りがある程度だが、比較的大きい違いが2点ある。1点は前者にある堀部弥兵衛・安兵衛父子が後者にないことだが、これは弥兵衛の筆記であることからすれば当然だろう。もう1点が、前者の「奥野将監」が後者で「山城金兵衛」になっていることである。弥兵衛が「山城金兵衛」を「奥野将監」の変名と認識していたと考えるのがもっとも自然である。
 ただ質問者はより直接的な証拠を要求されていたので、私としては十分にお答えをすることができなかった。

(5)嘆願続行論

 『一件』には『江赤』と異なり、より積極的な脱盟の理由を記している。奥野将監・河村伝兵衛は「大学殿人前之勤之罷成候様に被下成候得」と、今一度江戸へ出て願おうと言いだし、大石等が願っても叶わぬことだからと留めると、こちらの申し分に同意なき上はそちらの申し分にも同心しないと言って、脱盟したというのである。
 『一件』の記述の傍証はある。大高源五が元禄15年9月5日付で母にあてた有名な書状に、“さらに公儀へ訴えて大学が世間広く取り立てられるように願い、それが成らないときに吉良方へ取りかけよう”と「しきりにそうたんの衆」があったという。相談の衆が誰かは書いていないが、嘆願続行論があったことは確かだろう。同年12月13日付で恵光らにあてた書状の中で、大石は主要な脱盟者に言及しているのだが、佐々・岡本・粕屋・小山・進藤と奥野・河村を別に記載している。奥野・河村は他の幹部級とは若干事情が異なるらしい。“今となっては岡林杢助・外村源左衛門ら最初から加盟しなかった人々の了簡がましだ”という口振りは、開城時の嘆願にまで遡った感懐があるように思われる。大石の真意が条件付き開城にあったという私の理解で言えば、ここでなお嘆願を続行しようというような態度をとるくらいなら、最初から嘆願などせぬ方がましだという意味にとれるのである。

 さて、これを事実あったことだとすると、それはいつ頃のことだろう。今のところ、ぴったりおさまる説明がない。
 嘆願継続を主張するとすれば、いわゆる円山会議の決行方針確認以前でないと、論理的には整合性を欠く。しかし、決行方針確認(延引方針付帯)後も、奥野将監・河村伝兵衛は幹部として行動している(前述。8月6日付、大石の寺井玄渓宛書状)。
 一回決行方針に同意した後でこれを蒸し返すのは、論理的整合性は欠くのだが、脱盟の口実にするのであればあり得ないことではない。しかし、神文返し以前だったとすれば、既に袂を分かった奥野は返却対象にならないはずである。
 神文返し以後だと仮定してみよう。神文返しに奥野・河村が応じたとすれば、既に脱盟している訳で嘆願継続を主張する必要がない。しかし、神文返しのテストで同志として残留する意思を示したとすると、敵討への強固な意思を持っていた訳で、手の込んだ脱盟をするとは考えづらい。

 要するに、よくわからないのである。上述の仮説(つまり神文返しと同時に上京指令が来た)を正しいとした場合、脱盟の意向を持ちながらも単純に神文を受け取らず上京することもあり得るように思われるが、想像の上に想像を重ねた砂上の楼閣という批判を免れまい。

(6)回心と挫折

 将監のその後についての情報が、佐倉新助(岡野治大夫)が実子の不破数右衛門に送った手紙に見られる。これによれば、新助は将監を「存寄違候はゞ 、何も仕損候はゞ、跡を給候人存分に上野介を討候て、何もへ逢悦を申届候得。左無御座候てはわけ立不申候」「了簡違候はゞ 、何も仕損し被申候はゞ、其跡を継可被申候。何も仕おゝせ候はゞ、参会候て悦を申届帰り被申候へはせめて品能く」と説得した。将監もその気になり11月中旬出発したのだが、病気になりやむを得ず戻った。討ち入りが成功した旨を聞いて「涙を流し無念が」ったそうで、新助は「是非に不及仕合、天命の尽申候」と同情している。

これは『赤穂義人纂書』に「無名氏書簡」として収められているものである。伊東成郎氏によれば、完全なものが『史学雑誌』9-8に収められている由であるが(『忠臣蔵101の謎』)、今のところ確認していない。完全と思われるものが『史学雑誌』9-8に収められており(伊東成郎『忠臣蔵101の謎』に教えられた)、無条件で信頼してよいか不安はあるが、このテキストにより初稿を若干訂正した。

 『江赤』には脱盟者が皆臆病という訳でもなく、万一内蔵助らがし損じた時の「二ト目」すなわち二番手となろうと考えていた者もあった、という記述がある。最初から二番手にまわるということは(一番目が成功したら何にもならない)考えづらいが、回心してせめて二番手になろうと思うことはありそうに思われる。

 この書状の伝える事情は事実と認めてよいだろう。それにしても、この回心と挫折は意外である。大幹部級が脱盟したのだからいわば確信犯であろうに、佐倉新助に説得されれば、その気になって出発する。病気は嘘ではなかろうが、断念して戻ってしまうところを見れば、あまり意志の強い方ではないようだ。何も将監を責めようと言うのではない。たぶん人の言うことをよく聞き入れる“いい人”であって、“鉄の心”の持ち主ではなかったように思われるのだ。

(7)2人の義弟

 奥野将監定良が他人にひきずられやすいタイプだったとすると、2人の義弟の存在は案外大きいかも知れない。
 将監の妹・以和(岩)は長沢六郎右衛門之氏に嫁し、13人もの子女を産んでおり、その中には原惣右衛門の前妻・栄や多芸太郎左衛門の妻・千加がある。長沢は上述の通り神文返しのきっかけを作った人物である。長沢の脱盟届(判返し請求書)は将監に言及しておらず、長沢の行動に将監が関与していた可能性は低い。しかし、義弟が決行反対の最右翼だったことは、将監の行動に影響していないだろうか。
 長沢之氏の妹(姉か?)が佐倉新助(岡野治大夫)の妻、すなわち不破数右衛門の母であることにも注意しておきたい。脱盟を翻意させるほど(結局は挫折するのだが)新助の影響力が大きかったとすれば、より近しい長沢の影響を受けた可能性を否定できないように思われる(もちろん縁の近さが影響力の強さと正比例するわけではないが)。

 『大石家外戚枝葉伝』によれば、原惣右衛門の妻栄は元禄5(1692)年に37歳で没しているので、明暦2(1656)年の生まれ。以和は宝永2(1705)年に57歳で没しているので、慶安2(1649)年の生まれ。双方を正しいとすれば、8歳で娘を産んだ計算になる。たぶんどこかに間違いがあるのだろう。

 将監の下の妹・加図(勝)は河村伝兵衛の妻である。河村は将監とともに嘆願継続を主張して脱盟した人物である(『一件』)。横川勘平は奥野将監・河村伝兵衛・小山源五左衛門・進藤源四郎の4人のうちで取り分け伝兵衛が悪いと評している(元禄15年12月、三原屋宛書状)。嘆願継続を主張したときに主導権を握っていたのは河村伝兵衛だったに違いない。ここでも将監は他人に引きずられていたと思われる。

┌定良
◇◇◇◇◇◇◇◇原惣右衛門
├──以和◇◇◇◇◇
◇◇◇‖───┬ 栄
┌長沢之氏├長沢主水
◇◇◇◇◇
◇◇◇◇◇└ 千加
◇◇◇◇◇◇◇
◇◇◇◇◇多芸太郎左衛門
└ 女
◇◇◇‖─ 不破数右衛門
◇◇岡野治大夫(佐倉新助)

└──加図
◇◇◇‖─太郎右衛門
河村伝兵衛

(8)将監潜伏地

奥野将監が基本的に在京していなかったことが、彼の脱盟に微妙な影響を与えているようだ。さて、それでは京都におらずにどこにいたのだろうか。将監の墓が加西市と多可郡にあることが知られている。加西下道山は赤穂藩の飛び地で、磯崎神社・神宮寺の秀経に娘が嫁いでいたのを頼ったという(『赤穂義士事典』)。多可郡はこれに隣接する地域で、前述の佐倉新助書状に、病に倒れた脱盟後の将監が多可郡まで戻っていたことが記されている。将監の娘・千代が多可郡の快知院秀慶という山伏の妻になっていたとあるが(『外戚枝葉伝』)、秀経と秀慶は同一人物で、両方とも彼に縁のある土地だったのであろう。
 しかし、加西にせよ多可にせよ、脱盟以前に潜伏していた土地ではないだろう。元禄14年6月4日に大石内蔵助が大石郷右衛門・三平兄弟に送った書状には「奥野将監者姫路亀山ニ住居候」とあり(『大石家義士文書』)、一挙後の16年正月に大石瀬左衛門が提出した親類書には従兄の奥野将監を「播州本徳寺領亀山に住居仕候」とある。佐倉新助書状に従えば元禄16年正月には多可郡にいる訳だが、その情報は瀬左衛門には届かず、彼は亀山にいると思いこんでいたのである。前掲の佐倉新助書状に従えば、脱盟後の一時期多可郡にいたようであるが、その後また亀山に戻っている
 いわゆる山科会議以前の吉田忠左衛門も亀山にあった。播州亀山は一党にとってかなり重要な土地だったらしい。在京させなかったのは将監を軽視してのことではなかろう。佐倉新助も亀山にいたことが確認できるので(不破数右衛門親類書)、説得は亀山で行われたと考えるのが自然だろう。挫折した将監が亀山に戻らなかったのは、この旧友にあわす顔がなかったためかも知れない。加西か多可に移ったのはそれ以後であろう。晩年過ごした加西で新田開発に従事したという伝承は、将監が“鉄の心”ではなく“いい人”として穏やかな余生を送った証拠だと思いたい。

(付記)
その後「続・熔けた鉄心」を草した。本稿の記述を補い、一部修訂する必要があると思っているので、併せてお読みいただきたい。