続・熔けた鉄心
『宗玄寺記録』に見る嘆願続行論

田中光郎

(1)はじめに

 私は以前「熔けた鉄心」(以下前稿)で奥野将監の脱盟の事情を考察しようと試みた。その中で奥野がなお嘆願を続けようと主張したという『浅野内匠殿家来松平隠岐守殿江御預け一件』(以下『一件』)の記事に言及したが、どう位置づけるか十分な考察ができなかった。
 最近になって宗玄寺所蔵の『元禄仇討ちの記録』の存在を知り、『ろんがいび』上でも紹介したのだが、比較的良質の史料であると思われる。この中に、嘆願続行論に関する記述が見える。前稿および「東行違変の舞台裏」を修訂する必要が出てきたが、現時点では全面的改稿は困難であるので、補足的な意味で一編を草しておこうと思う。なお、この史料は宗玄寺のサイトに『元禄仇討ちの記録』として公開されているが、原題名というわけではないようなので、本稿では『宗玄寺記録』と仮称することにしたい。

(2)大学左遷と幹部脱盟

 本稿の関心からして、元禄15年7月の大学の閉門赦免・本家預け以降の奥野将監の動向に限定してよかろう。奥野将監の居住地は播州亀山(現在姫路市内)である。
 『宗玄寺記録』によれば、大学赦免の報を奥野将監が受け取ったのは7月22日のことである。原惣右衛門が町飛脚で知らせたというのだが、大石が知ったのも22日(『一件』)だから、少々早すぎるようだ。24日に矢頭右衛門七・中田理平次が大石からの使者として来たとあるが、この2人も大坂居住のはずだから、原の書状を持参した第一報ではないだろうか。大石の奥野への指示は「かねての申し合わせ通り、大学殿の安否次第存念を達するはずだが、連判の面々に違背はないか。京都近辺はこちら(大石)が確認するので、播州方面はそちら(将監)で確認してほしい」というものだった。そこで奥野は加東郡へ高久長右衛門、赤穂へ榎戸新介を送って確かめさせたところ、皆変わらないとの返事であった。それを承けて将監は7月27日に亀山を発足し、京都へ向かった。
 亀山に戻ったのは8月10日頃。8月6日付の寺井玄渓宛大石書状(『江赤見聞記』=以下『江赤』=所収)に、将監が最近上京したが既に離京したと理解できる記述があるのに照応する。在京中にいわゆる円山会議に出席したと考えられるが、近在の同志を集め「近々“存じ立つ”はずであるが指図次第江戸へ下れましょうな」と確認し、いずれも承知したと言って準備にかかったという。この時点での奥野は、脱盟の意向などまるでなく、播州支部長としての役割を果たしていたのである。

 8月中旬のこと、長沢六郎右衛門・里村津右衛門が讃岐丸亀から海を渡って将監のところへやって来る。彼らはいわゆる円山会議には出席しておらず、「近々江戸へ下って吉良邸に切り込む」ということを大石の手紙で知らされたのだった。長沢らの意見は、成功するとは思えないから、今回の江戸下向には従えない、ついては誓紙の判形を取り戻したい、ということだった。将監は「大石もかねがね“不同心の面々は江戸下向無用”と言っているから勝手次第に」と返答した。
 長沢・里村が上京して判形返却を要求したのは『江赤』によれば8月15日(14日に大石に面会を求めたが他出していて会えなかったとある)。上京前に亀山に寄って将監と会っているのだが、この時点でも将監に脱盟しそうな気配は見られない。

 閏8月上旬、いわゆる神文返しの使者である貝賀弥左衛門・大高源五が亀山にやってくる。この時に不破数右衛門は「内蔵助殿のなされかたは至極ごもっとも。またこの手段も大出来でござるが、拙者においてはこの通り」と神文を灰にして水に溶かして飲んでしまった。テストであることを見破った上で一味神水の作法により志の堅固なところを見せつけた訳である。この逸話、『宗玄寺記録』のほかでは見たことがない。将監がどうしたかの記述はないが、この後の活動を見れば神文を受け取ったは思えない。
 『宗玄寺記録』はこれに続けて潮田又之丞が将監を訪ねた記事を載せている。又之丞は江戸吉良邸の様子などを話し、在所で身辺整理をすると語った。で、その身辺整理の話題に関連して、又之丞の舅に当たる小山源五左衛門が、進藤源四郎・岡本次郎左衛門ともども脱盟したという記述が見られる。脱盟の理由としては、大石の遊興を諫めたが聞き入れなかったため疎遠になったことが挙げられ、さらに神文返しが大石の独断であったため「こんな勝手なことをするようでは到底大事は成就しない」と絶縁したのだという。
 『江赤』にも同様の記述があり、小山・進藤らが大石の遊興を口実にしたのは事実であろう。ただ、背景に決行方針を固めた大石と、それに消極的な進藤・小山の路線対立があることは間違いない。小山の脱盟届は閏8月10日付だから(大石は引き留めを図っている)、又之丞が亀山にやって来たのはその数日後くらいであろう。播州支部長・奥野将監は京都本部でおこっていることの全体を掌握していなかったであろうが、小山・進藤の脱盟に動揺した可能性は考えられる。

(3)嘆願続行論

 閏8月中旬には、大石から江戸下向の指示が出る。将監は三木団右衛門(原本二木に作る)・岡野治大夫・奥野弥一兵衛(朝比奈弥一兵衛)・口分田玄瑞を集めて相談する。そこで示された彼の意見は、大略次の通りである。
 江戸に下って吉良邸に無二無三に切り込んでもまず目的は達せられまい。また、もしできてもそれが本意であろうか。大学様のことをお願い申し上げ、御取り上げなくば月番御老中にもお願いし、推参者めとお仕置きになったその時に残る者が襲撃すれば、失敗しても後悔することはないだろう。またやむを得ず討ったことになるので親類縁者にもたたりがない。
 やむを得ず討ったことになるのでたたりがない、というのはよくわからないが、吉良を討つために江戸へ行くのでは徒党を組んだ計画的犯行になり、嘆願のために江戸へ行って成り行きで吉良を討ったのであれば罪が軽いということであろうか。ともかく岡野治大夫を含む面々が将監の言い分をもっともと認め、将監は上京する。

 閏8月21日、奥野将監は亀山を発って京都に向かい、河村伝兵衛も同道した。京四条の道場に借り住まいしていた大石を訪ねた将監は江戸へ向かう趣旨を尋ねた。大石は「江戸の同志から時節よしと言ってきたし、生活に困窮する者も出てきたので、上野屋敷で討死するつもりで江戸行きを催した」と答える。将監は「しゃにむに切り込んでも本意は達せられない。去年赤穂での恥の上に犬死をして、大学殿はじめ諸方に迷惑をかけるのは短慮である。おいおい江戸へ入り込んでおりただ留めることもできないから、江戸着の上拙者(奥野)と貴殿(大石)で一命を捨てお願い申し上げ、推参者とてお仕置きになればそれまでのこと。残る者が討ち果たせばよいだろう。是非そうしてほしい」と言うのだが、大石は「今更皆にそのようなことは言えない。どうしても同心いただけないのならお退き下さい」と言う。「それでは納得できないのでこのたびの存立からは退く。しかし志を変ずるのでは毛頭ない。おのおの方はし損ずるであろうから、その跡を引き受ける」と、奥野・河村は退いた。

 2人は20日余り逗留して嘆願続行に同意する者を探したが、みなこの期に及んで異変なりがたしと同心せず、ひとまず多賀郡まで引き揚げることとした。
 佐倉新助(岡野治大夫)書状によれば、将監は9月に多賀郡まで戻り「みなが了見違いを申すので退いた」と語ったという。20日余り在京したが同意する者なく多賀郡に戻ったとする『宗玄寺記録』と符合する

 双方の文言を比較すると酷似している。『宗玄寺記録』が佐倉新助周辺で成立したことの証左になろう。

 かつての同志が江戸に向かったと聞き、亀山に戻って準備をした将監も、江戸に向けて出発した。佐倉書状によれば、新助が勧めたものという(将監の江戸行きを、前稿では新助の説得で回心したためと見なしたが、それは誤読であったようだ)。出発は『宗玄寺記録』によれば10月末、佐倉書状によれば11月中旬のことである。いずれにしても途中(『宗玄寺記録』では伊勢路あたり)で具合が悪くなり目眩がひどく馬や駕籠に乗ることもできなくなった。大坂にいた服部謙庵という医師の治療を受け12月初めころ亀山に戻った。その後についての記述は『宗玄寺記録』にはない。

(4)むすびに

 以上が『宗玄寺記録』の伝える奥野将監脱盟の事情である。

 前稿で、嘆願続行論を唱えて脱盟したとするとぴったり説明できる時期がないと指摘しておいた。『宗玄寺記録』でも矛盾は解消されていない。ただそれは解釈の矛盾ではなく、将監自身の行動の矛盾である。
 いわゆる円山会議の後に近在の同志に「指図次第江戸え可罷下哉」と確認し、長沢・里村に対して脱盟は勝手次第と冷たくあしらった奥野将監が、なぜ 「二三輩宛江戸え下り可申」という大石の指図に従えなくなったのか。“嘆願を続行すべきだ”という将監の主張を妥当なものと認めるとしても、一貫して主張していたとは言えず、その間に「変心」と言われても仕方のないような変化があることは否定できないように思われる。そして、その変化をもたらしたのは、恐らく小山・進藤の脱盟なのであろう。
 嘆願続行論は多分に言い訳であろう。しかし、『宗玄寺記録』に見える奥野の言い分が他の言い訳と大きく違うのは、開城の事情にこだわっているところである。このこだわりが、将監の肉声らしく聞こえる。大石と二人で不名誉な開城を受忍した記憶を持つ奥野でなければ、この論理で大石を説得しようとは思わないのではないだろうか。また、いわゆる円山会議での決定が東下延引を付帯していたとすれば(前掲拙稿「東行違変の舞台裏」)、将監の即行反対論にはもう少し説得力がある事になる。
 もう一つ注意しておきたいことがある。奥野将監が討入の第二陣として準備していたという記述が『江赤』に見える。『一件』に見える嘆願続行論と一見無関係なようであるが、『宗玄寺記録』ではこの二つが一体になっている。嘆願続行を唱えて大石と路線対立をした奥野が脱盟する際の捨てぜりふだったのである。

こうしたことを考えると、奥野将監の動向に関する『宗玄寺記録』の記述は、おおむね信用して良いと思われる。多少将監を庇っているらしい節もあり、取り扱いには注意を要するであろう。