この朗読は、昭和59年頃、詩話会か講演会のときに自作を朗読したときの録音である。
会場ではテープから流した。。



眩しい闇 

黒部節子

薄暗い階段の下で。戸棚を探しています。ようやく探しあてて。中の闇をかきまわしていると。 戸棚の奥に。もう一つ。戸棚があるのです。小指を手かけに入れ。そっと開けます。 濃密な闇が指のまわりに。辷りこんでゆきます。すると。また奥の奥にもう一つ。 小さな戸棚があるようなんです。指は。ほとんど盲らです。開けなければならない。 くらがりの隅で。何かが囁きます。おそるおそる息をつめて。板戸をひくと。あ。遠い向こうに。 いつからかさわさわと鳴ってる逆光の原っぱ。近づいてくる夕日の。 れきろく。 パンタグラフが飛び。機関手の不吉な腕が。何度も黒く上下し。鉄橋の途中に。月見草が折れて。 「だれ」「だれ!」。曖昧な記憶の轍は。たった今過ぎ去ろうとする。と。急に川の水が指の間に流れて来て。 また消えてゆくのでした。 それから。手を上向きにします。闇の闇。もう一つの深い闇が。凍えた手のひらに。触れてゆきます。 あるかなきかの蜉蝣の。死の重さが。触れてゆきます。見えない闇にあれで幾つかの。 優しい陰影があったのでした。湿っている影。黙っている影。逆さになっている影。 向こうむいている影。俯いている影。影の影。そのまた影たちが。 それらはたしかここでわたしが閉じこめたはずですが――いいえ。何千年も前。わたしの奥深くで風化し。 散り散りになり。決して思い出すことのなかった影たちでしたが――。それから。闇の中で。しっかりと。 手のひらを閉じます。奥の戸棚からこちらへ。そのまま静かに。静かに手を引き寄せてゆきます。 白昼に引き出された。わたしの眩しい闇。これから手を開いて。 無の僅かな匂いを。ゆっくりと嗅ぐためにです。


詩集『まぼろし戸』(初出「湾」74号、83年11月)から























姉妹写真 

黒部節子

びろうど 張りの肘掛け椅子に
夢子さんはちょこんと坐ってゐました
白菊の、羽織は薬玉模様
きちっと伸ばした指を膝に重ね
大きく開いた二つの目はまっすぐに
夢子さんは しんけん
もちろん写真機のまんなかの黒い穴をじっと見てるんです
じっと、あの息も止るやうなあやしい白熱灯の下で
あんなに見つめて
もう自分の不しあはせが白菊たちのうしろからそっと近づいてゐるのですけれど
お正月の夢子さんには、わからないのです
私は立ってゐました
相変わらず顔を少し右に曲げて ふん と言いたげ
仕立て下ろしの蝶の被風着て
高い てえぶる に、無理に小さな怒った肘をのせてゐます
それなのに、わ、と言ったら、いまにも泣き出しさうなんです
あのときたぶん前の田嶋屋で
新しいねぢねぢ飴を買って貰はうとしてたのだと思ひます
「いかん、いかん」姉さんは慌てた声で
きっとさう言ったんです
ところで三つ編みの姉さんは葵女学院最後の制服姿
夢子さんと私のうしろに
しっかり立ってゐました、二人のひよひよした妹兎たちを連れ、半分夢中で
でも半分誇らしげでした
胸についてゐる痩せすぎの ぼけっと から
万年筆の金色の光が斜めに見え、消えました
大きな白い衿が少し
風にめくれてゐました。いいえ、大きな白い衿は
風にめくれてはゐませんでした
長い時間が経ってゐました
もう一人、四人 め がゐた筈です
とうに失せた印画紙(かみ)の上
夢子さんと私のうしろ、姉さんの隣の あそこ に
「三人で撮るといかんから」って、あのとき
家を出る前に母がたしか言ったんです
「ねっ、一しょに撮ろね」
その子の袖の縁が淡い藤色だったのをはっきりと覚えてゐて
その向こうは何故か寒く盲ひたまま
曖昧なくらがりの奥の

パシャッ!
銹びた音をたてて
私のなかの四十七年前の しゃったあ が、また降りようとしてゐました……


詩集『まぼろし戸』(初出「ラメール」84年春)から

黒部節子さんを偲ぶ会