乗降客数2,000人/日の駅
芦別市は北海道のほぼ中央部に位置し、市域の88%を森林が占める。
ここ上芦別駅前から望む山裾が明治地区上芦別炭鉱となる。
現在の駅の乗降客数は14人/日。かつての0.7%である。
上芦別駅を背に空知川に向かうとこの泰山橋。
昭和24年完成の運炭橋にはかつてトロリー式機関車が、
トロッコを連ねて走っていた。
橋から望む空知川の野花南ダムである。
実は同名のダムが近接しており、
もう一方は野花南駅南方の農業用アースダムである。
橋を超えるとすぐに荒れ地とズリ山である。
石炭増産が国家の再建のための至上命題であったことから、
食料や特需物資の特配は、炭住街の拡大に拍車をかけることとなる。
RC製の廃祉である。
安定職場であり衣食住が整った炭鉱町は、
次々に住宅が建設されるに至る。
配給所付近を進む。
明治鉱の鉱員数推移をみると、昭和20年に395人であったものが
23年には倍の817人となっている。
有線電車庫付近の荒れ地である。
昭和20年代に増加した炭住街は、昭和30年代に入りさらに拡大し、
空知川対岸にまで及ぶこととなる。
広大な荒れ地に露出したマンホールがある。
昭和26年当時のここ上芦別町明治地区の世帯数は800戸、人口4,000人である。
ピーク時には832戸、4,258人の人口は三井に次ぐウエイトである。
配管の残る巻揚げ場付近。
炭住街には病院、消防団、体育館、野球場、洋裁学校、保育園、配給所、
そして「芦別の学習院」と呼ばれた小学校もあった。
水利関係の施設跡が残る。
明治の炭住街の発展に伴い、上芦別駅付近の商店街も活況を極める。
飲食店が28軒林立し、映画館である上芦別劇場も毎日盛況であったようだ。
採炭事務所付近も遺構は皆無だ。
当初、構内に跨線橋が無かった上芦別駅は、
機関車との人身事故も懸念され、早急な建設が望まれた。
カテナリーを持たない木製の電柱跡である。
中央機電営繕事務所の跡も坑外平面図には記載されている。
また付近の上芦別公園の繁栄ぶりも町史にはある。
扇風機室の近くに遺構がある。
これだけの繁栄を極めた明治鉱も、
エネルギー革命と石炭不況により、昭和34年以降減産となる。
付近には遺構が増えてきた。
昭和34年にはガス爆発の不幸な事故が発生し、
更に炭住街のシンボルであった「信和会館」が全焼する。
山上へ続く、なだらかな掘割は輪車路の跡であろう。
芦別五山(三菱芦別、三井芦別、
油谷、高根、明治)の中で最初の閉山となった本坑は、
このとき職員376名と最盛期の1/4であった。
煉瓦の遺構は火薬庫に関するものかもしれない。
閉山後の昭和40年国勢調査では世帯数237、人口947名とこれも最盛期の1/4となっている。
またその後、栄町・寿町・旭町等明治地区の町名自体が消失してしまうこととなる。
中央部の斜面がズリ山への輪車路の跡である。
炭鉱20年間の歩みをまとめた書物にも、
現在の炭鉱跡地の変貌ぶりを感慨の思いで記されている。
ズリ山への登攀の途中に動物の骨らしき破片がある。
閉山から17年後の昭和55年には、
当時を忍んで明鉱記念碑が栄町の公園に建立された。
ズリ山からの炭鉱跡地の眺めである。
今となっては、かつての坑外平面図の「旭ヶ丘公園」や、
消防車庫、複数の鉱員浴場が当時の繁栄を物語る。
戻る