「ワキカタ」と呼ばれた北海道鉱業所倶知安鉱山




京極町の秀峰、蝦夷富士と呼ばれる「羊蹄山」1,892m。
アイヌ語地名は「マッカリヌプリ」、かつては女山の意味の「マテネシリ」。
見るのを後回しにすると、妬いて雲に隠れるとの逸話がある。 マッカリヌプリ

京極町内からワッカタサップ川に沿って登る。
昭和46年(1971)廃止の国鉄胆振線京極-脇方間のルート上だ。
鉱石輸送のため大正7年に軽便線として計画されたのが発端だ。 黒橋京極線


ワッカタサップ川を渡る旧線の橋脚跡。
建設工事はトンネル等難工事無く、橋梁も3か所と
全区間平坦地でもあり、大正9年には落成式に至る。 橋脚跡


付近では廃線に関する遺構が増えてきた。
ここには40kg級とみられるレイルが残存している。
当初は軽便鉄道であり、一般貨客の取扱をしない貨物専用線であった。 レール


道路と違い直線で繋ぐ廃線跡のピアとアバットである。
脇方-京極間は最も早くに開業し、
喜茂別や室蘭本線との接続は昭和3年/15年と更に後のこととなる。 橋台


街から遡ること約7kmで終点、脇方駅跡へ到達となる。
付近は京極町 一般廃棄物最終処分場となっており、
平成12年に周辺を整備した際には、大量の枕木やレイルが出土したらしい。 脇方駅跡


脇方小中学校の校門跡が残る。
明治42年に特別教授所として開設され、中学校は昭和22年に併設。
校門は昭和3年に鉱山組合より寄贈、昭和45年10月には廃校となった。 脇方小中学校


小中学校前に残る住居らしき遺構群。
駅の西部に国鉄宿舎や脇方郵便局などが存在したようで、
理髪店や呉服店など華やかな街としての機能を有していたようだ。 遺構


付近には他にも市街地跡の痕跡が残る。
徳舜別虻田桂岡八雲などを総括する日鉄鉱業の本部としての機能を持った
通称「日鉄本部」と謳われた倶知安鉱は百数十名の社員がいたという。 住居跡


少し上流には危険庫の廃祉が残る。
かつては「日鉄鉱庫」と呼ばれた施設も、
昭和23年発生の脇方大火の延焼をギリギリ免れた。 危険庫



この付近から遺構は一気に増加する。
閉山の主原因は良質の鉱石が底をついたことだが、
質が良く、コストパフォーマンスに優れた外国産鉱石に押されたのは現状であろう。 廃祉


右岸には治山された跡があり、
地下水集水ポンプの制御盤がある。
これは地滑り対策として近年工事されたもののようだ。 地滑り



その治山の丘の奥には長大な遺構が見える。
あれは恐らく鉱石積込施設のホッパーであろう。
近づいてみよう。 ホッパー


かなり巨大な施設だ。
昭和16年に鉱石運搬能率増強のため、鉱床に通じる電車線が仮設された。
鉱床と鉱倉間1.5〜2.0km間に5台の電車が運転された。 積込施設


ホッパーに沿って鉱床方面に向かう。
昭和45年の休山に伴い、付近の商店、魚菜店、豆腐店などは
逐次廃業、転出となり街の活気は一気寂しくなったそうだ。 遺構


上流域には巨大な廃墟群が現れた。
基台の先には2連の丸い煙突状の遺構だ。
かなりの荒れ地で足元に十分注意だ。 廃墟


これは冒頭解説したロータリーキルンの粉砕投入口付近のようだ。
2連並んだ遺構が迫力だ。
更に深く見てみよう。 回転炉


この煙突のような形状のものは、
恐らく廃ガス煙道で粉砕機を通った鉱石の投入口でもある。
中から延びる白樺が年月の経過を感じさせる。 煙道


耐火煉瓦で組まれた煙道内部である。
この下部に回転炉の入口部があるはずだ。
ここはたぶん除熱ボイラーに繋がっていたはずだ。 煉瓦


煙道を裏から見る。
この規模から言うとロータリーキルンの外形はφ2,300程度だろうか。
長さも10m超でもおかしくない。 煙道跡


更に奥にも遺構は続く。
脇方郵便局は43年間、国鉄脇方線は50年と2か月、小学校は62年、中学校は23年。
それぞれ鉱山の無人化に伴い、その歴史に終止符を打つ。 遺構







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