森の中の「分析」とよばれる施設




足寄町内から阿寒方面に向かう。
雌阿寒岳は今なお噴煙を上げる活火山で、
時折火山活動により入山禁止の措置が取られる。 雌阿寒岳

白藤の滝付近から林道へ入る。
39線の「線」とは北海道開拓の歴史に起因し、街の中心から約500mおきに区画したものだ。
39線ということは街から約20kmということになる。 39線沢林道


緩やかなカーブを描く林道。
付近には小学校や鉱友会館なる建物があったようだが、
まったくその痕跡はない。 グラベル


開けた空き地がある。
これは事務所か職員宿舎付近である。
付近はコロニーのように村が存在したようだ。 荒れ地


診療所付近から徒歩で探索する。
大病の際には診療所ではなく足寄まで、
ジープで運んだそうだ。 探索


若園鉱業事業所方面に向かう川には
ゲートが残存する。
若園方面(北東)には大きな遺構は無かった。 ゲート


魚介類を入れていたらしい木箱。
「用度」と呼ばれる購買所があったらしい。
しかし目立った痕跡はない。 木箱"


ようやく足元には硫黄の痕跡である。
昭和29年(1954)には浮遊選鉱設備が完成した。
原鉱をボールミルなどで破砕・摩鉱・粉末状とした。 硫黄



共同浴場やボイラーに繋がる当時の路だ。
ヒグマとの遭遇に備えて歩く。
この先が「分析」である。 共同浴場


子どもたちも「ぶんせき」と呼んだ分析所付近。
鉱石や硫黄の検査を行い、
すり鉢で鉱石をすり潰して調査していた。 分析



索道停車場付近を西へ進む。
かつては「原動所」と呼ばれたようだが、
痕跡は発見できない。 索道停車場


位置的にはボイラー付近に何かある。
あれは人工物だ。
あの形はオートクレーブかレシーバー、または型罐だ。 貯留槽


廃道の奥に遺構である。
円筒形の筒の底面に煉瓦が張ってある。
これは蒸気製錬の後工程、貯留槽(=レシーバー)である。 レシーバー


高圧蒸気容器(=オートクレーブ)で溶融した硫黄の「湯」を、
第一レシーバー(=貯留槽)に湯出し後、保温・静置する。
内部の煉瓦に見えたものは、耐酸タイルのライニング(=内貼り)である。 貯留槽


レシーバータンクの主目的は鉱石から分離した純粋な硫黄成分を更に精製し、
不純物の沈殿・濾過を行うため、第2・第3レシーバーまでが存在した。
オートクレーブが9基存在したので、本レシーバーは30台近く存在したはずだ。 レシーバータンク


精錬所方面に向かう道はほぼ廃道状態である。
購買所(用度)ではすべてツケで物品購入ができたので、
のどかに、お金の存在を知らない子供もいたようだ。 精錬所


少し下ると巨大な倒木がある。
付近が選鉱所のようだ。
製錬の熱源には空知・雄別・美唄の各炭鉱の石炭が使用された。
硫黄製品1t当たりの必要石炭量は200〜300tとなる。 倒木


西部には埋もれた配管が有る。
選鉱所の処理能力は200〜280t/日で、
精鉱生産65t/日程度の能力があった。 配管


フランジ付きの配管が木の根元に埋まる。
製錬残渣は沈殿池に流送。
おそらくそのタービンポンプに繋がる配管だと思われる。 フランジ


陶器の食器のほかに、電気に係わる碍子が落下している。
必要とする電力のため昭和29年(1954)には自家発電装置が稼働。
昭和31年からはすべて北電からの受電とし、自家発電装置はバックアップ用とした。 碍子


SGP80A程度の口径の配管用炭素鋼管。
精製が完了した硫黄は円筒形の型罐に手汲みされ固化、
一本25kg(40本=1t)の硫黄製品として紡績・製紙工場等に出荷された。 配管


最奥の沈殿池方面を望む。
かつては150人以上が従事した元山付近。
「火山性ガスの毒消し」であると黒砂糖が支給された、良き時代だったのかもしれない。 沈殿池







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