直営販売所と塚田商店
南茅部町岩戸(磯谷)集落は静かな漁村で、
海が非常に美しい。
ここから磯谷川に沿って西南山中に入る。
河口近くの磯谷川第二発電所である。、
郷土最初の発電と電化が実現したのは大正9年12月。
上流渡の沢に70kwの出力で鉱内の索道を稼働させ、海岸線の市街地より早く山中に灯がともった。
集落を超えると程なく林道となる。
この道は上流の磯谷川第一発電所へ向かう整備されたダートだ。
鉱山までこのような安定したグラベルが続くとは思えない。
しばらく進むと硫黄臭があり、湯気の出る白い川が林道脇を流れる。
これは温泉ではないだろうか。
湯気の出る小川は42℃もあり、これを少し遡ってみよう。
すこし進むと人工の施設がありいよいよ硫黄臭が激しくなる。
これはかつての磯谷温泉の跡だ。松浦武四郎も「蝦夷日記」に記している。
明治5年には付近が整備され、明治35年には熊泊鉱山の所有となる。
奥には鉱泉の滝があり、盛大に湯気を上げている。
今は風呂桶が一つ置いてあるが、大正年間には2階建ての温泉旅館が新築された。
この滝は更に湯温が高く、50℃を超えている。
昭和10年には湯治客で賑わい、山間の小宿として絵葉書さえ作成されるに至った。
磯谷川発電所の開始と共に用務の客も増加し、
宿主の郷土料理も好評で戦後長く繁盛することとなる。
温泉地帯の一角には神社の廃墟がある。
昭和48年に不動産会社の所有となるが、経営の実情は湯守に一任され
無人化となってしまった。
脇には小さな室のような坑口がある。
再び無人となった温泉跡地は浴舎も閉鎖され、
残念ながら昭和60年には旧舘の湯治宿の解体に至る。
温泉跡地から3kmで分岐である。
標高200m付近で本道は左のように見えるがこれは林業の伐採道だ。
鉱山道路は右に分岐しここから徒歩となる。
分岐を超えるや否やいきなりの廃道である。
6月初旬とはいえ道南は初夏のころだ。
それでは鉱山に向けて藪漕ぎに入ろう。
フキやイタドリで鉱山道路の痕跡は少ない。
鉱内からの搬出は12kg級のレイル延長500mをもって行い、
索道の出来る大正初めまでは坑外から駄付馬300頭にて馬車搬出した。
鉱山道路沿いには大岩がある。
大正9年の選鉱所から磯谷海岸積込場までの架空索道建設前まで、
本道が搬出用の鉱山道路だったのだろう。
鉱山道路は相変わらず藪に覆われ体力を奪われる。
本道を通った鉱石は、磯谷川の右岸からの積出桟橋を経て、
16t程度の荷役船に積み替えた後、3,000〜4,000t級の汽船に積み込み、函館・横浜に送鉱された。
1時間以上の藪漕ぎを経て、ようやく鉱山跡地付近。
鉱山特別教授場と呼ばれる熊泊小学校の分校が付近に設置され、
明治40年開校、教員1名、閉山の昭和2年2月まで19年間分教場として機能したが今はその痕跡もない。
ようやく鉱山の遺構らしい廃墟が見える。
専属診療所には嘱託の医師をおき、鉱山事務所直轄の販売部を設けた。
医師は鉱山事務所にも赴き、診療に当たった。
これは鉱員長屋の基礎の一部のようだ。
火薬庫や鉄工所、床屋に浴場と、
魚菜日用品を販売する塚田商店なる個人店もあったようだ。
鉱員社宅か職員住宅の基礎の廃墟が続く。
海岸の熊泊村の戸数400に対して、山中の鉱山集落が最盛期で100戸。
市街地からの行商人も多数いたようだ。
廃墟に残る陶器製の碍子である。付近に電力が送給されていた証拠である。
前述のとおり、鉱山集落に電送されたのは大正9年であったが、
函館水電による磯谷川第一発電所から沿岸臼尻、尾沢部(おっさぶ)市街地に送電され漁村に灯がともるのは昭和7年となる。
廃墟の基礎に残る鉄筋と絡む木々。
坑口群より選鉱所までの350mには傾斜10度の角桶を敷設し坑内水の水流にて鉱送する。
今回、選鉱施設の発見には至らなかった。
煉瓦製の遺構である。
焼取釜は直径1000mmの釜12基と沈殿器2個をセットとし、
燃料として薪材を使用し、精錬後の純硫黄は女工が砕き梱包していた。
硫黄の塊が残存する。
鉱脈に沿って排水坑道を掘削し、鉱脈良好な地点から竪抗を掘削。
脈の厚いところは階段状に掘進、坑道幅は3mを下回ることは無かったようだ。
付近には酒瓶が多数散在している。
メーカーに問い合わせたところ「寶酒造」(1912大正元年〜)では間違いないものの、
硝子瓶による年代特定は履歴が無く、非常に困難だそうだ。
ほかの種類の酒瓶も多数残る。
年一回、山神祭を挙行し、相撲や演芸が行われた。
鉱友会が結成され、鉱夫の慰安のための会合がしばし行われたようだ。
耐火煉瓦である。これは硫黄精錬の紛れもない痕跡だ。
立方体に砕いた塊礦を乾燥後、密封釜に入れ下部から燃焼する。
気煙をパイプで沈殿釜に誘導し冷却、液体に変化したものを汲み取り凝固固体を製品とする。
鉱山住宅跡を抜け、廃道を進む。
精錬所まではここから約1.5qだ。
最盛期の昭和14年には鉱山に158戸、海岸沿い市街地に458戸と1/3がヤマに暮らしていた。
やがて森の奥に人工物が見えた。
坑口と精錬所の間隔は180m。
大正7年完成の精錬所を見てみよう。
精錬所は斜面に沿って存在する。
坑口から傾斜10度の角桶を敷設、坑内水と共に鉱石を流す。
水流で流送中に泥や盤石が流し去られ、精錬所まで運搬される。
精錬は焼取式で直径903oの釜12枚と、
沈殿器
2台を添えた釜で合計13基を設備していた。
燃料は薪材で、相当量の木材が必要だったようだ。
実は昭和27年当時に鉱山は再開されたが、坑内のメタンガス充満と坑内火災により坑道埋没した。
1953年(昭和28年)に再閉山を迎えた本坑の歴史は50年。
街には無い電力を持つ鉱山街の祭りは盛況で、電灯を慕うように漁村の青年たちが集まってきたようだ。
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