回収硫黄の到来
岩老市街地から雪の残る山中を登る。
アプローチから激藪で、付近には踏み分け道すらない。
非常にアタック時期を選ぶ鉱山跡だと言える。
熊笹の茂る道なき斜面を、GPS頼りでひた登る。
常温の硫黄は黄色の固体、沸点が低く120℃以上で液体となる。
水の沸点よりは高いが、金属の製錬と比較すると遥かに低温で処理可能だ。
少し登ると荒地の平場がある。
沸点の低さが幸いし硫黄鉱石に多少の熱を加えると、硫黄を抽出することができる。
また空気中では370℃で発火、二酸化硫黄
(SO2)となる。
三坑付近だが相変わらず廃道状態。
硫黄は金属の
「硫化物」硫黄やそれよりも陽性の元素と結び付いてできた化合物
や
「硫酸塩鉱物」硫酸の水素を金属元素で置き換えた化合物。重晶石・石膏など
として自然界に様々な形で存在している。
金属と化合しやすく、銀の装飾品が温泉で黒ずむのは硫化銀
(Ag2S)と変化することが原因である。
索道のプーリーらしき遺構。付近にはワイヤーも残る。
火山地帯では化合物でなく単体の硫黄として存在し、
これは火山性ガスに含まれる硫化水素(H2S)や
二酸化硫黄(SO2)が原因で火山周辺に硫黄が多い理由となる。
その先には。ミズバショウの群落がある。
日本の硫黄鉱床はすべて火山性で、
「鉱染交代鉱床」マグマから分離した熱水・ガスが岩石の割れ目で硫黄を生成、
「沈殿鉱床」カルデラなどで噴気に混入していた硫酸を含む泥・砂から形成、
「昇華鉱床」火山ガス中の硫黄が火口や噴気孔で昇華してできた鉱床、
「溶流鉱床」噴火口や噴気孔から溶融した硫黄が硬化してできた鉱床
などに分類される。
レールの遺構。
軌間は410mm程度のナローで大きくアールを描いている。
付近には旧三坑、三坑、旧四坑が存在していた。
足元にはワイヤーの遺構。
ラングよりのφ12mm程度。
恐らく索道の痕跡で、これは後に証明に至る。
雪の残る斜面を、三坑と旧四坑坑口を探して分け入る。
大正末期から昭和にかけての時期は、
製紙業や化学繊維業の繁栄に伴い硫黄鉱床も生産規模が高まる。
そして発見したのは埋没した三坑の坑口である。
製紙工場で必要な「クラフトパルプ」ドイツ語=強いパルプ、白い紙の原料
生成時に不純物リグニンを除去、
これには硫化ナトリウム(Na2S)が使用され、含まれるのは硫黄(S)である。
埋没坑口から覗き込む。
レーヨンなどの化学繊維製造時には
二硫化炭素(CS2)が使用され、これも含まれるのは硫黄(S)である。
坑道内部は激しく埋没しているものの、
支保工も残り、辛うじての隙間がある。
しかしながら、入坑は不可能だ。
道なき斜面を登り、さらに上部を目指す。
戦時色が濃くなる昭和19年(1944)には企業整備令により、
松尾・
幌別などの
大規模9硫黄鉱山を除き、大部分の硫黄鉱床が休山となる。
更に進んだ名無坑付近にはレールが残存する。
戦後、朝鮮動乱の軍需景気も追い風となり、昭和21年(1946)10鉱山であった硫黄鉱床は、
昭和28年(1946)には36鉱山に増加する。
レールの果てる行く先には坑口、名無坑の成れの果てである。
露天掘りの硫黄鉱床は他鉱山に比較し、少ない初期投資で起業可能であり、
卓越した技術力も必要なく、中小鉱山が一気にこの時期繁栄する。
棄てられたレール達。
軍需が去った以降は硫黄価格の暴落が発生し、弱小鉱山が一気に閉山、
以後閉山鉱山分を他鉱が生産増強で補い、年間20万tの生産が維持された。
これは倒れた索道の支柱である。
更に山上の新五坑から、
アプローチポイントの海岸沿いまで、
索道の記載が鉱床図にはある。
標高を稼ぐとそこは植生の無いズリ山だ。
原油には硫黄成分が含まれており、そのまま燃焼すれば硫黄酸化物が発生、
これは公害の原因となる。
ズリ山の上には煉瓦製の遺構がある。
当初、原油は品質向上のためだけに脱硫されていたが、
公害問題が激化した昭和42年(1967)「公害対策基本法」が施行される。
煉瓦製の遺構は煙突のようだ。
公害が社会問題化した以降、重油の低硫黄化は基本条件となり、
脱硫による回収硫黄の生産が、硫黄鉱山衰退の要因となっていく。
煙突付近
煙突上には鋳鋼製の釜が多数ある。
硫黄は110℃で溶融するため、鉱石をそれ以上に加熱すれば硫黄が得られる。
精製法としてはダラニ法、自然法(トモヤキ)、焼取法、蒸気製錬などがある。
この鋳物はポット(丸釜)と呼ばれる。
ダラニ法は平窯に品位80%以上の昇華硫黄を入れて
300℃程度に熱し、表面上の硫黄をすくい取る。
自然法(トモヤキ)は最も原始的な製錬方法で、鉱石ごと燃焼、溶融硫黄を回収、実収率は50〜55%。
二酸化硫黄、硫化水素の煙害、そして製品も不純物が混入と、
小規模鉱山で戦後の燃料不足時に施工された方法である。
ここ岩尾鉱山ではこの焼取法が施工された。
あらかじめ熱したポット(丸釜)(G)に鉱石を入れ、焚口(B)から火格子(I)で石炭などを燃焼、
下段煙道(D)と上段煙道(C)を通過した熱気を用いて、
220℃でポット底部に硫黄が堆積。
450℃に保持すると硫黄は気化してコンデンサー(沈殿缶)(F)を通過、
冷却され液体となった硫黄を溜釜(H)で硬化させる。
気体として蒸発した昇華硫黄は華蔵(はなぐら)(E)で一部捕集する。
余剰熱気は大煙道(A)を通過し、煙突(@)で排気される。
焚口(B)付近である。
明治42年(1909)頃に始まった焼取法は、その後最も普及した、
日本式製錬術とも言える。
まずこの焚口(B)で石炭、薪材、コークス、重油などを用いて熱源を供給する。
構築には赤煉瓦20,000枚、耐火煉瓦850枚程度を用いる。
耐火煉瓦は耐火度1,630〜1,970℃程度である。
焚口(B)、煙道(CD)、コンデンサー(沈殿缶)(F)等の配置である。
焚口(B)から水平に9〜11m直進する下段煙道(D)、上部へ折り返して伸びる上段煙道(C)。
その上部にポット(丸釜)(G)が埋まり、外側がコンデンサー(沈殿缶)(F)だ。(マウスon)
これが埋められたポット(丸釜)(G)である。
この底部に煙道(CD)があり、このポットを下部から加熱させるのである。
この蒸留釜は直径1,150mm、深さ630o程度で450〜525s/個となる。
このような鋳鋼製の重厚な蓋で密閉し、
実際には10〜14日間連続で火焚を行うため、
この丸釜の寿命は8〜18か月となり、使用後は入替・破棄される。
ポット(丸釜)(G)の断面図である。
気化した硫黄は上部のパイプ部分を通過して(赤矢印)、
次の工程、コンデンサー(沈殿缶)(F)へ流れ込む。
これが5基並ぶコンデンサー(沈殿缶)(F)だ。
直径750〜900oの円筒形で長さ6〜9m、前方に液化硫黄の流出口があり、
水分を放出しながら傾斜10〜15°で下りつつ、冷却されていく。
フランジで接続されているのは、劣化部分だけを交換できるように、
分割構造となってるためである。
コンデンサーのメイン機能は気化した高温硫黄を冷却液化することである。
焚口(B)と並んでコンデンサー(沈殿缶)(F)の排出口である。
ここでの反応式は
SO2+2H2S=3S+2H2Oとなり、つまり
二酸化硫黄(亜硫酸ガス)と硫化水素が反応し、硫黄と水が生成することとなる。
今なお析出した硫黄が残る。
この後、溜釜(H)に硫黄を貯める訳だが、その手前には一段の凹部がある。
これは硫黄と同時に蒸留された砒素やセレニウムを比重差で除去するためのものだ。
これが析出硫黄の受け皿、溜釜(H)だ。
ここで適温まで冷却の後、型に嵌めて形状を整える。
実収率は75%程度、必要とする燃料も製品1t当たり3,000〜4,000kcalと非効率であった。
ここは華蔵(はなぐら)(E)跡である。
一部昇華した硫黄分はここで捕集される。
無駄なく図られているようだが、丸釜の帯電により硫黄の気化が抑制される場合もあった。
木造の櫓である。
これは索道の支柱だ。
約600mの索道を用いて、硫黄を運搬したようだ。
新5坑付近でレールが斜面を這う。
焼取法より近代的な
蒸気製錬
は、
オートクレープという高圧蒸気容器を使用する。
レールは6s級の細いもので、索道起点と焼取釜間を結んでいたようだ。
高圧蒸気容器に鉱石を投入し、蒸気を吹き込み、
加圧・加熱することで溶融させる方法が蒸気製錬である。
(マウスon)
軌間は510o程度の狭軌だ。
オートクレープは鋼製で、
耐酸タイルの内張が施してある。
(マウスon)
レイルたち
ミッションのような部品が山型鋼のイケールで覆われている。
オートクレープに鉱石を投入後、容積比2倍の水を入れ、
撹拌後、水蒸気を吹き込み40分で150℃まで加温する。
(マウスon)
プーリーやその車軸が森に埋没している。
オートクレープ内圧4〜5kg/cm2となった3〜5時間後に撹拌停止、
底部より硫黄排出、レシーバータンクで保温静置、ろ過後製品となる。
チェーンやカム、ギヤも色濃く残る。
蒸気製錬は焼取法に比較しても煙害が無く、実収率80%と高効率であり、
燃料も1t当たり1,700kcalと無駄のない近代精錬法だと言える。
索道の起点部にはプーリーや架台が残る。
ただし蒸気製錬の短所は鉱石の成分や粒度条件に製品品質が左右されやすいことで、
つまり製錬前段階での浮遊選鉱などによる鉱石品位の向上、均質化が不可欠なことである。
旧5坑方面にはコンベヤーなどの遺構が多い。
完成した硫黄の搬出、索道への積載を行っていたようだ。
奥には機関がある。
これは横型水冷ディーゼルエンジンだ。
出力20馬力/500rpm、製造年代は1953年頃(昭和28年頃)。
山岡内燃機(株)がヤンマーディーゼル(株)に変遷した時代の代物だ。
恐らく索道かコンベヤーの稼働用の機関であろう。
当時、大型で始動や取り扱いが難しかったディーゼルエンジンを、
小型化し始動性を向上、農業用や灌漑ポンプ駆動用に普及した製品だ。
高台から望む鉱山跡全景。
元来、硫黄製錬所はガス類の放散をよくするため、
開放的に建築される。
新鉱床付近から再び坑口の探索に向かう。
風雨は構内の鉱石の乾燥を妨げ、
製錬の全成績に甚だしい悪影響を及ぼす。
上部には植生の無い、硫黄のズリ山だ。
風雨を防ぐために、製錬所の密閉度を高めると、
ガスの拡散が不十分となる。
なんとかズリ山を登る。
二酸化硫黄(SO2)が場内で10万分の2の濃度になると、
人体への危険が懸念される。
ズリ山のピークから海を臨む。頂上奥には目立った遺構はなかった。
焼取釜の後方水分放出口から、逆風が流入した場合、
硫黄に着火して暴発することもあったそうだ。
森に突然、フランジ付きの配管が転がる。
これは使用済みのコンデンサー配管であろう。
不思議な光景だ。
下山しつつ旧坑付近を見下ろす。
多数の腐食した遺構が見える。
鉱床図では旧三坑と呼ばれる付近だ。
機関とタンク、どれもひどく腐食している。
コンプレッサーか油圧ユニットか。
くまなく見てみよう。
機関とタンク、どれもひどく腐食している。
昭和30年代後半、石炭に代わり石油消費量が年々増大していくに従い、
回収硫黄の生産は急速に増加していく。
ディーゼルエンジンと巨大なスクラムベルトのプーリーが架台に載っている。
国内の硫黄鉱山の生産高は昭和43年(1968)に最大数量の26万tをみたが、
回収硫黄の副産物であるが故の低コストには太刀打ちできず、翌年から生産減少する。
ヤンマー 2LDL型、ロッカーアームやラッシュアジャスター代わりのスプリングも見える。
昭和45年(1970)には鉱山硫黄10万tに対し、回収硫黄24万tとついに逆転し、
大手の硫黄鉱山の閉山が相次ぐこととなる。
圧縮空気で始動するダイヤディーゼル、つまり三菱重工業の前身である。
そして昭和47年(1972)群馬県白根鉱山の閉山により、
日本国内のすべての硫黄鉱山が姿を消した。
機関付近の旧一坑ズリ山を登る。
炭鉱や金属鉱山とは比較にならない、
急激な衰退と閉山、これが硫黄鉱山の悲しい特性である。
森と海岸線の誰もいない隔絶感の中に、多数の遺構を発見できた。
なお現在では年間176万tにも及ぶ回収硫黄が生産され、
そのうち国内消費は60万t、残りは輸出されその9割が中国向けである。
湯泊五坑へ
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