地を這う板巻鋼管
一部で有名な『尺別の丘』である。
音別新八景にも指定された、
根室本線と太平洋を望む好展望地だ。
尺別鉱区から更に山中。
アプローチは荒れた廃道からスタートだ。
ここから片道3qを目指す。
既に道は無いもののアップダウンをできるだけ避けたルートを選ぶ。
事前に地形図で読み込んだ、
緩やかな谷と尾根を繋ぐ。
しばらく登るとエゾシカの頭蓋骨が朽ちている。
周囲は結界のような雰囲気だ。
更に登攀する。
道なき道を進む。
昭和37年10月現在、雄別炭鉱尺別鉱業所は合理化目標達成のために、
年産40万t体制を確立することが目標であった。
いよいよ道は荒れてくる。
当時の状況としては、北卸坑が39年度末にて終屈、
東卸坑も昭和38年度末には稼行区域が深部に移行することとなる。
沢を登りきると急に開けた一画に出る。
深部移行が進行すれば移動距離の増加による実働時間の減少、
運搬距離の長大化、運搬方式の複雑化によるコスト高を免れない
尾根を越えると植生が変化する。
当時の人員と運搬能力の点で40万t/年の出炭の確保は困難であると判断された。
以上の障害を打開し年産40万t体制を確保するために
ベルト斜坑
を掘削し深部開発に貢献することが模索された時期である。
ここからは目的地に向かい距離157mで標高差52.9mを下る。
鉱区としては尺浦隧道の北に沿って双久通洞が北へ向かい、その東部に東卸坑、北西に北卸坑が存在、
間に扇状坑鉱区が開発されつつあった。
扇状鉱区、最初の発見はこの碍子であった。
電柱やレンガ、このような小規模の遺構を見逃さず追うことで、
やがて大きな遺構に到達できる。
緩やかな旧道のような斜面がある。
突然、道の痕跡に出会い、
それが自然に消えることも多い。
付近には一升瓶が落ちている。
炭鉱や鉱山の現場にはよく一升瓶が朽ちており、当時は飲みながら業務にあたったのか、
これも一つの痕跡として鉱区のヒントとなる。
木に絡むワイヤーがある。
これは間違いなく炭鉱跡の残材。
遺構は近いと確信。
夥しく散らばる鋼材。
等辺山形鋼に穴を開けて加工してある。
何か設備の架台か固定するための治具のようだ。
鋳物のカバーのような遺構がある。
これはどうやら変圧器(トランス)のようだ。
『變壓器』という昭和26年当時の銘板がある。
1919年設立の大阪變壓器株式会社製。
これは現(株)ダイヘンの礎となった旧商号だ。
変圧器は電圧を変える(=変圧する)ための機器だ。
一般的なのは海外で日本の電化製品を使うための旅行用変圧器などがある。
発電所で作られた電気は送電時の抵抗を減らすために高い電圧を維持している。
これを6600V→200Vなど各施設の負荷に合わせて電圧を変えるのが変圧器の仕事だ。
これは『油入(ゆいり)過負荷遮断機』。
絶縁油中で電流の開閉を行う遮断器である。
昭和12年6月製、約90年近く前の遺跡だ。
油入開閉器に自動遮断装置を設け、回路に異常状態が起きた時、
また過負荷により過電流が流れたり、あるいは電圧低下の時に遮断用原動力を作動させ、
油の中で自動的に回路を遮断する。
これは『進相用OF式蓄電器』、つまりコンデンサだ。
コンデンサは受け取った電力を消費したり、貯めたり、放出したりする受動部品の一種で、
直流電流を遮り、交流電流を通すという基本機能を持った電気部品である。
OF式とはあらかじめ精製した絶縁油を充てんして密封したOF (Oil Filled)式 の略で、
進相用とは、交流回路の何%が仕事をしているかを示す値を「力率」と呼び、
この力率を高め、仕事をしない無効電力を減らし電力の有効活用を行う機構だ。
周辺には更に鋼材が散発する。
間違いなく電力を使用する巻上機や、
排気に関する施設跡のようだ。
やがて巨大なパイプの遺構、
扇状通気斜坑に到達だ。
坑内からの排気された空気を導くパイプのようだ。
扇状通気斜坑にはプロペラ式 20馬力の扇風機が設置、
公称容量1,000m3/min 現在風量890m3/minのスペックであった。
鋼管は一部脱落しているものの、
3本の足で等間隔に固定されている。
パイプの直径は約1,500mm、
長さ3m程度の鋼管をフランジで接続してある。
マウスon 直径計測
このパイプは恐らく板巻鋼管と呼ばれるもので、
切断した平板をプレスで曲げてパイプ状にしたものの、
繋ぎ目を溶接して成形したものだ。
配管の脇には電動機や扇風機の基礎が残る。
扇状通気斜坑の通域経路は、炭砿技術 第24巻 昭和44年10月版によると、
双久通洞−東卸区域本卸−扇状運搬連結坑道−扇状通気坑口となる。
崩れた配管の延長上には坑口がある。
円形の坑道は通気用の風洞だ。
一部封鎖が崩れている。
風洞の少し上には別の坑口がある。
これはメンテナス用の人道坑口か連絡坑口のようだ。
坑口には鋼製の補強用の枠にようなものが倒壊している。
坑口は封鎖されているが一部が崩れている。
人道坑口から奥を覗くと、
坑道が続いており、
先ほどの風洞とY字に接続しているようだ。
装備を再度整え、坑道内に入る。
足元にはレールがあり、高さ約63o、
これは9kgf級の細いものだ。
酸素濃度は20.6%、
全く問題ない数値だが、
計測を継続しながら進む。
しばらく坑道を下って振り返ると、
坑内分岐で坑道は左右に分かれている。
直進が連絡坑口、右側が風洞に向かう。
風洞は坑口付近のみ鋼製のプレートで巻かれている。
少し下って冒頭で解説した崩落事故に伴う、
対策箇所まで進んでみよう。
レールに沿って斜坑を下る。
この軌道は原炭搬出用ではなく、
資材の搬入用のようだ。
扇状鉱区からの原炭の運搬は炭車を6tディーゼル機関車にて、
東卸坑に運び、双久通洞から出炭していた。
しばらく下ると突然覆工が崩落する。
円形に加工されたIビームの支保が露出する。
Iビームが続く劣悪な崩落個所、
この奥にライナープレートの事故対策箇所が存在するはずだが、
そこまでの到達は危険なため撤退を決めた。
昭和39年度末には斜坑長3,000mのベルト斜坑の完成を予定、
これは4年半の歳月を費やし、昭和41年(1966)6月、日本一長いベルト斜坑として完成した。
北卸坑においては終掘、東卸坑においても深部移行となる予定であった。
それは閉山の2年前の出来事である。
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