84億円のプラント

今回探索した中央竪坑が完成したのは昭和40年(1965)5月。
その時期は通産省による石炭鉱山保安臨時措置法に基づく、
炭鉱整理が過渡期の時期だ。 夕張


通産省が保安不良炭鉱を選別し、閉山勧告を行う。
応ずるか否かは炭鉱側が判断し、勧告に従った場合は合理化事業団を通じて、
閉山交付金が支給される。 アプローチ

アクセスルートは御覧の廃道だ。
市街地からの距離は片道12kmとなる。
ここから延々登る。 廃道


当時のものらしき水門が残る。
ハンドルで雌ねじを回して、
スピンドル(雄ねじ)を上下させるタイプの水門だ。 水門跡


所々入渓して進む。

中央竪坑の深度は600m。
地上から坑底が576m、坑底以下のサンプ(Sump=水溜め)が24mであった。 沢登り


廃道を登りきるとコンクリートの遺構がある。
門柱のような遺跡が複数個所存在する。
何かの土台のような形状だ。 遺構


コンクリート製の遺構は他の個所にも散発する。
どうやらこれは鉄塔の土台、基礎の廃祉のようだ。
付近には変電所も存在したようだ。 RC


これは奥部竪坑付近の鉄塔だが、
この足を支える基礎の土台のようだ。
北炭が独自に敷設した送電線跡だ。 鉄塔


藪の足元には煉瓦の基礎がある。
これはガス圧送室の痕跡である。 鉄塔


道なき斜面を更に登ると大きな平場がある。
北海道炭礦汽船(株) 夕張鉱業所 
第二坑 中央竪坑跡に到達だ。 平場


広大なヤードには数々の遺構が点在する。
昭和35年着工から2年間で
掘削距離は全行程1/3の230mに及んでいた。 基礎


コンクリート製の土台に太いH鋼が残る。
付近には立坑の巻上施設があったようだ。 第二坑


周辺には人工的に崩された、
コンクリートの残骸が堆積する。 ケージ上家


北の端にはコンクリート製の壁が残る。

立坑掘削工事中には湧水量の多い難所が存在したようだが、
高効率のポンプなどで対策し、当時の新鋭機器を投入したようだ。 壁


擁壁はかなりの距離で続く。

当時の掘削工事は北海道で初めての同時工法が採用された。
掘削とコンクリート巻きを並行して行う方式だ。 廃祉


図のように、中央竪坑は夕張鉱業所の主軸をなす第二坑の、
通気・排気・人員の入出坑のスピード化を求めて
着工された合理化の証である。 鉱区図


広大なヤードの巻上家付近は悉く解体されている。

中央斜坑から奥部竪坑を経て第二坑繰込所に通じる
高速電車用の延長2,710mに及ぶ通洞が貫通された。 巻上家


浴場や安全灯室、繰込所のあった付近だ。

この中央竪坑は昭和36年8月から着工され、予定では昭和38年度中完成予定であったが、
出水等の障害により2年間遅れて完成に至った。 浴場


繰込事務所方面を遠望する。

工費は当時で28億円(現在の物価で84億円)、
これに採炭機や通気設備を合わせると夕張の合理化投資は約35憶円に及んだ。 繰込事務所


鹿のヌタ場の奥には坑口がある。
これが本坑通洞、通勤用の連絡隧道だ。 本坑通洞


この通洞は2月着工と寒冷期でもあり、
当初は破砕地帯が多く難工事であったが、
その後地層の安定と共に進捗、急速掘進の実績となっている。 通洞


坑口は密閉されているが、碍子なども残る。

記録では更に新夕張の深部と中央竪坑を結ぶ
延長1,830mの連絡坑道も掘削されたとある。 隧道


中央竪坑の完成により高速電車の運行が行われ、
入出坑時間が40分短縮、
入排気設備の増強と相まってより深部の採炭が可能となった。 ヌタ場


これによって1人当たりの月出炭能率は23.1tから、
29.2tに増加し、第二坑全体の出炭量は1日2,300tから
3,200tに膨れ上がる予想であった。 遺構


この時点で 平和坑 と夕張坑の立坑による合理化工事が終了したため、
その後は 幌内鉱業所 の合理化に重点がおかれることとなった。 廃墟


片方で終閉山勧告が行われてる最中に開発された中央竪坑。
ビルドとスクラップが共存する時代に、
企業体としての炭鉱は合理化の促進と人員整理の波に翻弄されたのかもしれない。 廃祉







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中央立坑
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