2年間の夢


平成2年(1990)、赤平市は開基100周年を迎えた。
滝川村、歌志内村の一部となった以後、
昭和29年(1954)市制、ピークの昭和37年(1962)には29の炭鉱が存在した。 赤平市


立坑跡の工業団地から残雪の林道を進む。

立坑完成前、-170mの5片主要坑道をメインとし、
-420mの9片主要坑道の開発が進行していた。 アプローチ


まずは右岸の柏本坑を目指す。

雄別炭鉱(株)が経営していた炭鉱は、
雄別炭鉱上茶路炭鉱そして、
尺別炭鉱と 茂尻炭鉱であった。 柏本坑


沢の対岸にはコンクリート製の遺構がある。
鉱区図では坑務所となっているが、
渡渉して確認してみよう。 坑務所


廃墟はかなりの規模で、
工務所というよりは選炭施設のような雰囲気だ。
周辺にも遺構は広がっている。 廃墟


昭和36年(1961)出炭量は雄別43,750t/月、尺別30,000t/月、茂尻31,660t/月と、
三山に大きな開きはなかったが、
雄別本山にかつての強大な山勢は無くなっていた。 選炭施設


広大な建物跡のような平場を超える。

雄別所有鉱区の中で茂尻だけが出炭予定を満たすことができず、
当時の常務は茂尻と共倒れしてしまうのではとの談話を残している。 平場


鉱区に沿って廃道を進むが遺構は発見できない。

茂尻問題は社内合理化を進める中でも、
昭和36年には2億円の赤字となり、なお存亡にかかわる問題となっていた。 廃道


山中の一本の木に『集合解散場所』の銘板がある。
炭鉱時代の物か林業や営林署の設備なのかは不明。
ここは一般の人が通らない深い山中だ。 集合解散場所


エゾシカの足跡と共にヒグマの足跡である。
目安としてヒグマの足跡の横幅が、9cm以下は一歳未満、
15cm以上は雄である。 ヒグマ


当時の政策、スクラップ&ビルドの仕分けにかかわれば、
茂尻はスクラップ(閉山)群に編入される公算も高かった。
その中で再建の切り札となったのが立坑建設による深部開発だ。 分岐


上流を目指すと沢沿いに人工物がある。

昭和36年度には5片(-170m)より上部は終堀、
7片と言われる-295m以下の深部採掘が模索された。 遺構


坑内図は上図が立坑完成前、下図が完成後だ。
立坑完成後は-420mの9片以下の開発が進められる予定だった。
斜坑か立坑かの判断は投資設備に見合う出炭量が左右する。 坑内図


沢沿いの人工物は排気風洞、鴨の沢坑だ。

斜坑か立坑かの選択はスクラップを阻止する長期の深部開発計画をアピールする上でも、
再建の可能性として立坑建設の方が有利だったのかもしれない。 排気風洞


鴨の沢排気風洞は昭和32年12月開通。

茂尻運搬立坑は内径6.5m、深度750m(=13片)、
トロッコや人員を載せるケージ方式が採用された。 排気立坑


立坑の着工が昭和38年11月12日、
完成に合わせて5片、7片、9片坑道は立坑を目指して大掘進した。
昭和42年3月、それぞれ貫通し立坑体制の骨格が整ったこととなる。 鴨の沢


運搬立坑の掘削は新菱建設(株)によって施工された。
750mの採掘には1年10か月の月日を要する難工事であった。
掘削人員はのべ45,654名という再建をかけた大型プロジェクトであった。 排気風洞


風洞の最奥は水没だ。
深度がわからないため、
ここで撤退する。 風洞水没


運搬立坑は昭和42年2月完成テスト、6月5日揚炭と本格稼働する。
ところが深部開発の期待にもかかわらず、
昭和44年(1969)茂尻炭鉱は閉山する。 風洞坑口


立坑完成から閉山までの稼働はわずか2年間である。
翌年の昭和45年(1970)、雄別、尺別、上茶路の三炭鉱も、
相次いで閉山を迎えることとなる。 風洞坑口







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排気風洞
排気風洞

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