上茶路炭鉱跡 探検: 北の細道 上茶路炭鉱

上茶路炭鉱 犇めく鉱区の橋頭堡



北海道白糠町

 終戦と同時に国の緊急課題となったのは食料、そして燃料の確保だった。
そんな中、北海道の未利用地の開拓5か年計画に基づき、
その当時の唯一の燃料、石炭の採掘生産に本格的に取り組むことになった。

昭和26年(1951)には北海道開発局が設置、本道開発の基礎となる、
『地質図幅』の作成に取り掛かる。

『音別/白糠/上茶路 地質図幅』完成の昭和33年(1958)には、
すでに白糠炭田は財閥等の鉱区が複雑に絡み合い凌ぎを削っていた。

以下は白糠炭田の鉱区を模式化したものだ。
白糠炭田

 国鉄白糠線が開通する昭和39年(1964)以前は、白糠から茶路川沿いの道路をバスが運行していた。
道路は悪く特に融雪期、降雨時は極悪路と化した。

また護岸工事はほとんど行われてない状況で、橋梁の流出破損が多く、
恒久橋化や道路改良の諸工事を強化しなければ周辺の炭鉱からの石炭搬出は不可能な状態だった。

そんな中、石狩炭田に匹敵する大きさ(2,000q2)と、
道内の20%の埋蔵量(20億t)を誇る釧路炭田の北西で、
上茶路炭鉱が開坑、採炭開始されたのは昭和39年(1964)とこれはかなり後発の部類だ。

上茶路炭鉱から積出港である釧路港までは51qと、雄別炭鉱−釧路港間44qと大差なく、
運炭を新線白糠線開通後の鉄道輸送に頼らざるを得なかったのは明白な事由だ。

鉱区を登録したのは雄別炭鉱鉄道(株) であり、
事前の調査で 「炭丈」(すみたけ)炭層の厚さの中で不純岩石(=はさみ)を除いた石炭部分だけの厚み は1.8m、傾斜70度で可採炭量は約53,000tとされ、品位平均6,200cal、
販路は主として火力発電用であった。


付近の炭鉱が一部閉山を開始していた昭和30年代後半の開坑、
本坑閉山の昭和45年(1970)2月までの6年間の攻防、
それらについての歴史的背景と現地の状況を撰文してみたい。




通洞・BC・アーチ鉱枠・・・






選炭所
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