ビルド鉱の幻影
岩見沢市は北海道中央部、石狩平野の商業都市だ。
幌内炭鉱への道路建設の際に、
労働者がここを湯浴沢(ゆあみさわ)と称したのが由来とされる。
万字市街地に残る英(はなぶさ)橋である。
昭和12年(1937)12月に建設された鉄筋コンクリート製の二代目だ。
昭和44年(1969)に延長99mの三代目現在橋に代わった。
万字全盛期の大正10年(1921)秋、
寿町(旧古長屋)と英町(旧新長屋)を結ぶ、
ポンネベツ沢に延長73mの初代大吊橋が架橋された。(写真は残存する二代目)
アプローチは前日までの積雪状況だ。
スノーシューを履くまでもなく、
ツボ足でのアタックだ。
北炭初期時代の万字坑は決して安泰ではなかった。
市街地の大火(昭和6年 75戸焼失)、坑内ガス爆発(昭和9年)など、
当時は人口が激減した。
しかし最盛期の昭和30年には付近に5,000人が暮らし、
北炭のドル箱として夕張第一坑の出張所から、
北炭万字坑として独立する。
ここまででも相当登ってきている。
単独行のため、果たしてこんな奥地に炭鉱施設があるのかと不安になる頃、
森の守り神のような巨木がある。
沢にはコンクリート製の遺構がある。
炭鉱時代の取水堰のようだ。
小さな上流の沢で水位を上げて用水を確保する施設跡だ。
沢沿いには遺構が散発する。
車軸や鋼製の部材、
目的の施設は近いようだ。
登りきると塞がれたRC製の遺構と鋼製の放射塔がある。
これは旧い立坑跡だ。
もしかすると千代田万字鉱山時代の遺構かもしれない。
放射塔は塞がれた穴からガス抜きを行う設備だ。
周辺は狭い空間だけが平場で、
コンクリート製の遺構と鋼材が散らばる。
擁壁にフェンスが残る。
北炭時代の鉱区図には周辺に入排気坑口が2か所記載されているだけで、
この立坑に関しての記述はない。
付近には鋼材や崩れたコンクリートが散乱し、
昭和30年代以降の遺構とは一線を画する。
他の遺構と比較すると北炭時代の遺構はどこか贅沢な造りが潜伏している。
上流に向かうと密閉された坑口が残る。
手前が西原入気斜坑、奥が西原排気斜坑、
どちらも北炭時代の連斜坑に接続する坑道だ。
昭和51年5月27日完成、万字炭鉱閉そく工事とある。
このように入気坑口と排気坑口が接近している形式は中央式と呼ばれ、
両坑口が離れて配置されるのを対偶式という。
隣接する排気側斜坑坑口である。
鉱区規模が大きくなるほど対偶式が採用され、対偶式の方が通気坑道は短くて済み、
通気抵抗が少なく維持も容易、排気が入気坑口に吸引される恐れも少ない。
万字炭鉱は地下水との攻防であった。
昭和22年開坑の北部斜坑、そして新斜坑とも、
地下水の異常出水で水没、採炭は放棄されるに至る。
新たな南部方面開発においては、
坑道内に遮断ダムを配置して、
排水を続けることとした。
昭和35年、人員整理はしないと明言していた北炭は、
相次ぐ斜坑の水没放棄と石炭不況のあおりを受け、
万字・
美流渡・
赤間
の各炭鉱を北炭から分離、希望退職を募った。
熾烈な反対争議の後、新会社「万字炭鉱株式会社」は発足。
しかしそれも実際には北炭の傘下での経営、
ビルド鉱としての命運で生き残り、いつかは北炭に復帰することを目指したという。
昭和50年1月、万字本層採掘時には採掘直後に出水が始まり、
吐出のための大口径配管とポンプで坑底は埋まることとなる。
微粉炭と塩分を含んだ水は電装部品の絶縁を劣化させやがて排水に支障をきたす。
旧坑に排水、そして大型ポンプ設置中に台風停電が起こり、
二連斜坑は満水に、やがて電気機器は漏電し使用不能となり、
それから半年間の排水を続けたが、水位低下には至らなかった。
その後、新石炭政策を背景に再建は不可能と判断、
昭和51年3月25日、閉山を迎える。
万字市街の人口は昭和50年の1,704名から翌年には682名と、
1年間で1,000人以上がその地を離れることとなる。
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