ズリ山の崩壊


赤平市は東西に空知川が貫流し、
かつての炭鉱産業を起点に山麓に向かって市街地が拡大し、
住友赤平北炭赤間雄別茂尻昭和電工豊里の企業城下町が形成されてきた。 赤平市


末広炭鉱の奥から山に入る。
付近の鉱区の変貌は著しく、
大小炭鉱が犇めいいていた地帯だ。 アプローチ


かつての輸車路の様な緩やかなカーブの下に平場がある。
本坑を操業した赤平建設工業(株)は昭和23年に創業し、
もともとは北炭空知鉱業所にて坑内請負工事を行う外注先の一つだった。 平場


そこには人工的に加工されたRC塊が苔むしている。
大資本が休山した鉱区を再度、地元企業が租鉱する。
これはよくある流れだったようだ。 遺構


坑道が陥没し、後にできたような池が残る。
同社は昭和29年当初は北炭の鉱区を租鉱、 
昭和35年からは赤間炭鉱の鉱区にも進出した。 池


陶器製の容器が残っている。
炭鉱跡地では珍しい形状だ。
付近が鉱区である確証だ。 容器


ここからはひたすら歩いての調査だ。
沢沿い、平場や高台、人工の雰囲気を察知して探索する。
たった9年間の痕跡だ。 探索


怪しい平場が多数残る。
赤平建設工業の躍進は堤炭鉱に留まらず、
百戸地区の露頭炭採掘をも手掛けた。 平場


沢沿いにはコンクリート製の基部が残存している。
電動機か扇風機などの機器を据え付けたベースのようだ。
やはり40年代の遺構より遥かに古い感じだ。 基部



基台の先には湿地があるだけで坑口等は無い。
ここ堤炭鉱の石炭坑名は『末広番外坑』と称し、
付近の特定鉱床美唄層の番外最下層を稼行した。 沢


なだらかな斜面も人工的な雰囲気だ。
最盛期は月産4,000tの出炭と、
非常に生産性が高かった。 斜面


高台には水槽が存在した。
選炭施設の記録は資料にはないが、粗鉱は選炭を伴う作業なので
選炭用水の確保の施設であろう。 水槽


水槽はかなり深く、1m以上はありそうだ。
昭和34年4月には連絡斜坑を開坑し、
操業も繁栄期に入ることとなる。 選炭用水


水槽の下部には鋼製の部材と基礎のコンクリートが残る。
運搬経路の拡充と通期の効率化が加速し、
昭和35年からは出炭量の増加が予定されていた。 アンカー


昭和36年4月、融雪により住友赤平炭鉱のズリ山が崩壊、
これにより重大な被害が鉱業所に及ぶ。
そして同年7月と翌年8月には集中豪雨に見舞われる。 基台


集中豪雨の爪痕は坑内浸水に及び、
運炭路の決壊を発生させた。
予定していた坑内採掘計画は頓挫することとなる。 基礎


以上の様な予期せぬトラブルが折り重なり、
堤炭鉱は昭和38年8月30日、石炭鉱山整理促進交付金の対象となり、
9年間の攻防に終止符を打つこととなる。 遺構


基礎の遺構が苔むし残っている。
本坑の閉山に至るプロセスは、
大手が棄てた鉱区を再び中小企業が粗鉱するモデルケースの末路なのかもしれない。 遺構






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基台跡
基台跡

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