坑内ガスの利用と攻防
三笠市は石狩平野の東端、夕張山地の谷間に位置する。
現在の人口は8,040名、
炭鉱が盛んな昭和30年には57,519名と約7倍であった。
唐松(とうまつ)駅は旧国鉄幌内線の駅跡で、
昭和62年(1987)幌内線廃止と共に58年の歴史に終止符を打つ。
ギャンブレル屋根と呼ばれる牧舎のような高い大きな屋根が特徴的だ。
駅の裏手には巨大な選炭場の廃祉が残る。
これは昭和42年(1967)の新幌内/幌内統合後の施設で、
ここから幌内線までの専用引込線も存在したようだ。
かつて付近には木造の巨大映画館『新幌内会館』が存在した。
2,000人収容の大規模施設で。
新幌内鉱業所の余勢を表す象徴だった。
選炭場から離れると変電所の廃墟がある。
坑内メタンガスを誘導しタンクに保管、
かつてはそのガスを利用した発電所も存在した。
変電所の鉄塔やその基台も残る。
変電所は電気の電圧(V)を変える施設だ。
もともと発電所では2万ボルト程度の電気が作られる。
送電中には電気抵抗のロスが発生するので、
50万ボルトや27万5千ボルトなどの高電圧で送り出す。
電流が送電線を流れるとき、抵抗で熱が発生する。
その熱はジュール熱と呼ばれ、ロスとなる。
この熱は電流が多いほどたくさん発生するため、
電流を少なくすると抵抗が少なくなる。
同じ電力(W)の電圧(V)と電流(A)は反比例するので、
電流(A)を少なくして送電ロスを減らすためには、
電圧(V)を高くして送電する必要がある。
高くして送電した電圧を下げるのが変電所の仕事だ。
現在では4〜5段階の変電設備で段階的に変圧する。
本施設も6,600Vや200Vに変圧するための施設であったのだ。
変電所には変圧器のほかに、トラブル時に電気を切断する遮断器、
点検時に遮断する断路器、
落雷の時に機器を守る避雷器などが設備されていた。
現在は無人で行われている変電設備も、
当時は有人で、
その断路が適性がどうかの検証もなされていた。
変電所の上流には斜坑群が残る。
ここは幌内坑と新幌内坑が統合した昭和42年(1967)までの主要斜坑、
本卸(ほんおろし)と連卸(つれおろし)である。
卸とは上部から掘り下がる斜坑のことで、
石炭や資材を運ぶ本卸に対し鉱員の入出坑を行う連卸というのが一般的だ。
昭和48年9月密閉、最終名称の『新三笠炭鉱』と書かれている。
昭和6年10月に本卸連口の開坑となった時代背景は、
まだ付近は無炭地帯への着工という無謀さが指摘されていた状態で、
企業自体も経済的に不振な中、晴れて着炭に至ったという。
斜坑群の奥には煉瓦製の危険品庫が残る。
新幌内坑は開坑当時から異常なメタンガス量との攻防が命題であり、
日本一のガス山と呼ばれた。
その坑内ガスを燃料とするガス発電所を昭和10年9月に建設。
この国内先駆けの施設は1,500kwの発電を行い、
自鉱の動力と灯用に使用してなお余力があったという。
しかしこの施設は太平洋戦争下に
南方開発の重要施設に流用のため、
国家総動員法により昭和17年撤去に至る。
こちらは昭和16年5月完成の第二風井坑口である。
閉山に伴う密閉は昭和43年6月末。
当時から幌内層下の深部開発のため坑内ガスへの対策として設置された。
エゾタヌキの亡骸だ。
この第二風井坑口完成後は通気系統が改善され、
総排気ガスのメタン濃度は30%以下となり安全が確保された。
すぐ付近に排気坑口がある。
昭和10年末には排気専用斜坑にゼフレー社製のプロペラ式大型扇風機を設置した。
プロペラの直径2.74m、550回転/分と毎分3,540m3の風量があった。
電動機(モーター)は150馬力、翼式は1組12枚の羽根が2段のタイプで、
入気坑口より排気坑口が高く、
自然通気の相乗効果で風量は多かったという。
プロペラ型は排気坑口断面に設置、つまり排気専用風洞となり人員などの入坑はできなくなる。
ターボ型/シロッコ型はレンジフード同様にダクトを使用するため、
機器の設置の自由度があり、坑口を占有することもない。
プロペラ型は
「静圧」気体を圧縮して送る力
が小さく離れると風量は減少する。
ターボ型/シロッコ型は静圧が高く遠心送風機と呼ばれるが、
大きな違いは羽根(インペラ)の形状となる。
水車と同じような形状のシロッコ型に対し、
ターボ式は後向き(あとむき)型の羽根と呼ばれ、シロッコ型より枚数が少なく高回転、
音は大きいが風量は高い。
昭和40年代の新幌内炭鉱は坑内深度520〜670mと非常に深く、
坑道延長も23,000mに及び、
その坑内ガス対策のために150馬力ターボ式主要扇風機が設置された。
ガス対策としてはこれら風坑と共に採掘跡を充填密閉してのパイプ誘導、
及び『窄孔ガス抜き法』と呼ばれるボーリング方式のガス抜き実施により、
70〜90%の濃度ガスを30m3/分抽出した。
別会社を設立した上で、捕集したメタンからは
「カーボンブラック」
メタンガスを不完全燃焼させて採取する、微粒子でインクやゴム(タイヤ)に添加する物質
の製造が行われた。
本坑で実証されたドイツ発祥のボーリング式窄孔ガス抜き法は、
そこから
夕張二坑、
幌内、
平和、
各鉱にも水平展開された。
風洞内部はすぐに閉塞している。
保安対策として坑道内のガス検定器は92台設置、昭和25年に救護施設拡充、
昭和31年には防爆型水銀投光器、定着蛍光灯が設備された。
付近には排気立坑に付随する煉瓦製の遺構もある。
開坑着手当時(昭和5年)の日支炭礦汽船(株)から、
昭和7年に鉱区を引きついだのが昭和礦業(株)である。
昭和礦業(株)は坑道拡張のために隣接する北炭幌内鉱区の一部移譲を模索する。
もともと新幌内鉱は製鉄用炭として日本鋼管の専用炭であったが、
国家総動員法による専売禁止により、その専用炭の意義が薄らいだことが要因だ。
北炭としても販売方策上、新幌内の鉱区は十分魅力的であり、
昭和礦業(株)の日本鋼管向け納炭分を夕張粉炭で肩代わりし、
代わりに新幌内中塊炭を北炭が入手する交換契約に至った。
その後、新幌内鉱と幌内鉱の隣接鉱区併合による新会社設立案が高まったが、
昭和14年時点では株式比率の相違で実現に至らず、
昭和礦業(株)の過当投資による行き詰まりが発生した昭和16年12月に、
両社の利益一致から北炭と合併、新幌内鉱業所新幌内礦として発足する。
これは
「カーボンブラック」自動車用のタイヤでは重量の1/4程度含まれるゴムの補強材
製造炉の跡だ。
昭和41年に
幌内立坑
が完成し翌年4月、
北炭系列の北斗興業(株)に譲渡され新三笠炭鉱が再スタートする。
つまり日支炭礦汽船(株)(T14〜S6)→昭和礦業(株)【新幌内炭鉱】(S6〜S42)→
北斗興業(株)【新三笠炭鉱】(S42〜S48)と移り変わる。
新幌内礦は特にガスが多く、採炭のための発破には多くの制限を受けた。
圧縮空気を利用した採炭機9台と削岩機、扇風機も含め他の炭鉱より保安設備が多かった。
翻って爆発についての研究がなされたのも本坑の特性だ。
外径1.5m、長さ4.3mの耐火レンガに内張を施した製造炉に燃焼バーナーを取付け、
坑内メタンガスと空気を1:9.5の完全燃焼割合で送入する。
炉軸に並行にクレオソート油を噴射して不完全燃焼させるとカーボンブラックが生成する。
更に登っても深い山中に電柱が残る。
炭鉱の爆発災害が頻発した昭和11年当時、期を同じくして北大工学部が創立される。
そこで爆発予防の研究が命題となる。
坑内でのメタンガス拡散と流動、点火現象、炭塵の粒度や揮発性、
ガスと炭塵が吸着した場合の爆発限界、着火温度、導火線や雷管など着火源との関係性。
これらの解析には実際の坑道を想定し、非破壊ではなく現実の爆破試験が必要とされた。
対岸の斜面に小さな坑口が現れた。
鋼板で塞がれ、そのポータルも不思議な形状だ。
坑口には架台の様な枠があり、配管が吐出している。
これはガス/炭塵の爆発研究に用いられた昭和11年完成の『爆発試験坑道』である。
当初は爆薬安全被筒の研究用として設置、
終戦後は資源技術研究所が借用、炭鉱用爆薬の安全度実証用として使用された。
こちらは本坑道断面である。
坑口から5mは内径1.55mの鋼鉄管の爆発室。
続いて内径1.8m、延長15mの鉄筋コンクリート巻きの放爆坑道となる。
上部には12mの排気口があり、総延長の20m奥には換気室がある。
全体を山の斜面に配置し、昇坑道として模した半地下坑道である。
メタンと空気の混合気(Firedamp)=炭鉱坑気をFDと呼び、
雷管や導火線の薬量や間隔、吊るす高さを変更して爆発状況を実験したのである。
採炭時の発破用導爆線の火薬量、それらを束ねた場合の引火率、
また坑内ガスが炭塵に吸着された場合の着火温度に及ぼす影響などが
実実験により調査され、データ化された。
試験坑道内部は資料通り鋼鉄製だ。
ダイナマイト中の薬剤(硝酸・白梅)の限界薬量(LC)の違いによる
着火性なども検証された。
坑口脇にはガス爆発試験場の建屋が残存している。
FD(坑気)を疑似的に作成するため、ガスボンベからメタンを坑内に導入し、
送風機で攪拌しながら9.0±0.3%の混合気を送り込んだ。
連続5回の不着火、爆絡写真による伝播状況、水分の影響、
殉爆と言われる複数の爆薬の感応状態などが考察され、
終盤には坑道の緊急密閉技術についても実験されたと資料にはある。
メタン供給の配管用バルブが残る。
ある時期からは捜検と呼ばれる入坑時の火気服装検査を廃止し、
更衣室からこれに続く坑口浴場という他では類を見ない独創的なレイアウトを持ったという。
かつては日本一のガス山と呼ばれ、
消火器を模した禁煙の巨大看板が存在した新幌内炭鉱。
そこには坑内ガスを研究し再利用した紛れもない争闘の痕跡が残っていた。
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