炭鉱の歴史は上芦別の歴史

芦別市は北海道の中央部に位置し、
降るような美しい星が見れることから、
『星の降る里』をキャッチフレーズとしている。 芦別市


芦別市街地から西へ進む。
大正時代から昭和7年(1932)までの第一段階の繁栄となったのは 第一坑〜第五坑であり、
今回探索鉱区は戦後から閉山の昭和39年(1964)3月までの第二段階繁栄坑となる。 アクセス


鉱床に向かって廃道を登るが最近開けたような山道だ。
昭和8年(1933)から昭和22年(1947)までは三菱芦別炭鉱の空白期間となり、
その間の昭和13年(1938)に 三井芦別炭鉱が開坑したことになる。 山歩き



しばらく登ると最近設置されたようなセンサーがある。
これは地すべりを計測するパイプひずみ計のセンサーのようだ。
地中のパイプが地すべりの変動で変形した具合を測定する装置だ。 ズリ山


1mおきにゲージの付いたパイプをボーリング穴に埋設して、
滑斜面上下の電気抵抗差を測定し、地面のすべり面がどこにあるかを測定する。
つまり地滑りによる地面下のパイプの変形を測定、数値化する装置だ。 炭鉱跡


足元にはスレートの部材や木材の遺構がある。
第一次繁栄期のピークは昭和3年(1928)で、
出炭量1万7,450tを記録し従業員数も900名に達した。 スレート


藪の奥には大きな遺構が見える。
昭和8年(1933)に出炭制限による操業中止となったものの、
敗戦後の日本経済再建の礎として再興されることとなる。 選炭場


昭和22年(1947)からの再開においては、
新一坑、六線沢坑、雪の沢坑、ペンケ坑、そして下芦別坑の開発に着手し、
翌年から三菱芦別鉱業所として本格的再操業に入る。 選炭



巨大な選炭施設が残る。
戦後復興のために石炭と鉄鋼・肥料の生産に経済政策を集中するという傾斜生産方式が
閣議決定したのは昭和21年(1946)だ。 選炭施設


国策としての石炭産業保護のため、
国の『配炭公団』は石炭の一手購入、一手販売を行った。
これも石炭の消費者単価を抑えるべく目的のためだ。 選炭所


『配炭公団』は各炭鉱業者からの買取価格よりはるかに低い市場価格を設定し、
その大きな差額は国費による給付金として各炭鉱業者に配布された。
つまり低品位小炭鉱でも配炭公団による一定価格の買取があるため経営が成り立っていた。 浮選


その同時期に再開坑した三菱芦別炭鉱は、
『策定新炭鉱』としての指定を受け、『臨時石炭管理法』による指定炭鉱となり、
再び活気に漲ることとなる。 選鉱


選炭施設は斜面に続く。
昭和24年(1949)には上芦別−ペンケ間の専用鉄道が完成、
更に繁盛期を迎える。 選炭施設


その後の水洗選炭機の完成とともに、
明治炭鉱 と並んで上芦別地区の、
二代柱の炭鉱として君臨する。 水洗選炭機


最盛期となる昭和30年代には、
鉱員1.200名、日産2万t以上を記録したが、
昭和39年(1964)3月に閉山を迎える。 選炭場


第一次繁栄期末、全坑の操業休止後の昭和8年以降も、
全鉱区の地質調査を継続し、廃坑にすることなく将来に備えたことで、
再び良質な石炭の採掘に貢献し再興が叶ったのである。 遺跡







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