閉幕相次ぐ中のデベロップメント
以下地図は上茶路北部である。
黄色道が現バイパス国道392号、左岸の赤道路が旧国道である。
平成18年(2006)、牧場サイロ工事中に赤丸部分で縄文土器が出土している。
該当箇所付近には昭和58年(1983)廃止の旧国鉄白糠線の橋梁が残る。
赤丸の上茶路遺跡では鹿焼骨と縄文時代後期の緑ケ岡式土器が発見された。
出土したのは土器2,756点、石器23,893点にものぼる。
集落中心部には旧上茶路駅が残り、これは昭和58年(1983)10月白糠線とともに廃止された。
当初は足寄までの延伸計画であったが、
7.9q北の北進駅までを終着駅に、池北線に到達することなく廃線となる。
開坑後は上茶路地区に一台市街地が形成されたという。
16戸の鉱員住宅38棟、鉱員寮70名収容、職員住宅12戸5棟と、
学校、診療所、季節保育所も建設された。
上茶路炭鉱は
雄別炭鉱
や
尺別炭鉱
に次ぐ雄別炭鉱鉄道(株)系列の最大のヤマであり、
専用軌道の敷設もその計画にあり、国鉄白糠線の開通ありきでの開発であった。
このことが本坑開坑の時期的な背景にある。
国道からシュウトナイ川に沿って進む。
白糠町にとっても上茶路炭鉱は、明治鉱業の
庶路炭鉱そして
本岐炭鉱の二山とともに、
町内大手三山に該当することから、国道から坑口への7qのシュトナイ道路開削に協力した。
シュトナイ道路沿いには開拓農家と思われる廃祉が一軒残っている。
駅との間には共同浴場や集会所兼労務詰所も存在した。
炭鉱の繁栄とともに一時的に上茶路の人口は数戸の農家から250戸にも膨れ上がったという。
シュウトナイ川沿いにはアバットやピアが所々残っている。
通洞坑からの運炭軌道が資料にはある。
恐らく旧軌道の成れの果てであろう。
林道沿いには所々に自然の池があり、
12月初旬は凍結している。
なお本林道は冬季通行止めのため片道7qは徒歩となる。
更に奥地でズリ山らしき小山がある。
当初の出炭計画に対して、
実際の出炭成果はかなり低かったようである。
炭鉱跡地に接近すると、
地形図通りの大きな平場がある。
コンベアー、電気機関車、スキップと設備投資は大きかったようである。
平場は一部が大きく崩れ、鋼材が埋没している。
昭和41年(1966)からの採炭計画に対し、
実際には50〜65%の採炭成果にとどまった。
上部にはトロッコの車輪が埋もれている。
採炭成果が振るわなかったのは、
可採炭量が薄く、当初の目論見とは大きく異なっていたことが要因のようだ。
上流域にもさらに広大な平場がある。
投入人員についても、当初の計画通りにはいかず、
しかし毎年計画的に募集はしていたようだ。
付近は最近、大規模な土石流か地すべりが発生したようだ。
白糠炭田は特に増炭のタイミングに開坑が相次ぎ、
『黒ダイヤ』と呼ばれた原炭の供給に呼応した。
斜面にはレールの遺構が現れた。
『黒ダイヤ』と呼ばれた要因は、
需要に対し一時期供給が追い付かなかったからだ。
鉱泉が噴出するパイプがある。
白糠炭田だけで昭和20年代に9炭鉱、昭和30年代にも9炭鉱、
合計18の炭鉱が消長している。
吹き出す鉱泉の上部にはアーチ鋼枠が変形している。
あれは恐らく坑口だ。
資料には通洞と斜坑の記載がある。
坑口はアーチ鋼枠を支保としてすぐに木板で封鎖してある。
これは5,300mの通洞坑のようだ。
アーチ鋼枠の変形が激しく、パラパラと砂が崩れている状況だ。
坑口跡から河床まで下ると太いフランジ付きの配管が朽ちている。
太さから通気用の扇風機と接続されていた可能性がある。
恐らく付近に深さ360mの斜坑があったはずだ。
河川敷の上部にはコンクリート製の遺構がある。
排気用の扇風機の台座か、
巻上機の架台だと思われる。
電柱が仆れて、苔むしている。
鉄道敷設前は白糠農協が送電設備を有しており、
白糠線開通後は白糠変電所の強化と高圧線の送電が行われた。
周辺には大規模に遺構が残るが斜坑の発見には至らない。
斜坑巻上用に300HPの巻上機が存在していた。
スキップ(原炭専用の車輪付き運搬かご)を稼働していたその痕跡だ。
巻上設備の下流には運炭軌道の跡がある。
通洞からはバッテリーロコ(小型電気機関車)にて搬出、
このアーチは名称こそないものの、当時の運搬系統図にも記載されている。
アーチは重厚な作りで補強の鋼枠も取り付けられている。
これは橋梁ではなく通洞からの原炭を風雨などから守るための覆道(ふくどう)、
つまりスノーシェッドの一部のようなものだと思われる。
埋没しているレールの高さは約94oで、
レール規格は22s級のようだ。
資料には6t級のディーゼルロコの記載もある。
マウスon レール規格
鉱水の流れ出る斜面は斜坑坑口の跡かもしれない。
主要坑道は南部2,500m/竪入1,100m、北部3,500m/竪入1,600mが、
基幹坑道として計画された。
斜面には電柱が折れ、悠久の年月を経た感じがある。
昭和32年には11炭鉱、33年には6炭鉱、34年に9炭鉱が閉山したにもかかわらず、
同時期に白糠炭田のみは新鉱の開発気運があった。
トロッコの連結金具が落ちている。
白糠炭田の時代に逆行する気運は、
国鉄白糠線の調査線指定が影響している。
「鉄道敷設法」運輸省の諮問機関である鉄道建設審議会が予定線、調査線、工事線と段階的に建設の妥当性を検証した
の中の数ある建設予定線の中でも、
建設の調査を始める線とされる調査線に指定されれば、
それはより具体的に予算が付き、将来が約束されたことを意味する。
屋根で覆われていたらしい覆道の痕跡が残る。
この中をディーゼル機関車と、
原炭を積載したトロッコが行きかっていたのだ。
当時、沿線には182(埋蔵量10億t/品位6,800cal)もの鉱区が存在し、
白糠線の未来が明るいことにより、
関係する財閥系鉱業権者はこぞって新鉱開発の計画を立案した。
釧路炭田で閉山相次ぐ時期に白糠炭田で開発が加速したのは、
白糠線が調査線に指定された冀望に他ならない。
この時期、加利庶炭鉱、東亜炭鉱、西白糠炭鉱などが相次いで開坑する。
地方の未成鉄路が予定線、調査線、工事線と指定を受け、開発が加速する背景には、
採算が取れなくても大都市への過当集中を排除するという考え方が、
当時の政治的バックグラウンドとして垣間見える。
大手企業の開発計画を背景に、
昭和30年代後半の白糠炭田は時代に逆行するかのように、
繁栄の気運を高める。
しかしながら白糠線が北進駅以降延伸できなかった理由は、
昭和40年代に石油と石炭の消費バランスが
完全に崩れたことに他ならない。
燃料革命の進度は想像をはるかに超え、
それに加えて町は大型台風による
国有林の風倒木の処理に難航していた。
奥地開発を目的として敷設された白糠線は、
石炭と木材の将来への見通しが立たず、
開通には至らなかったのである。
上茶路炭鉱が開坑する昭和39年(1964)1月には、
白糠炭田最大のヤマ、
明治鉱業庶路炭鉱
が閉山し、
次いで昭和44年(1969)4月に同系
本岐炭鉱
が閉山する
。
町内大手二山の閉山は近隣に『なだれ』閉山の余波を与え、
雄別炭鉱、
尺別炭鉱
の二山とともに、
上茶路炭鉱も昭和45年(1970)2月に閉山となる。
犇めく炭住、そして拡張された真新しい校舎、診療所、
そして33.1qの未完の鉄路を残し、
従業員とその家族はあわただしく散っていったという。
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