崩潰の道
大正14年(1925)に遠軽町より分村した生田原は、
北ノ王、
共栄、
矢矧、
生田原と産金地帯として古くから知られた町だった。
平成17年(2005)には周辺町と合併し遠軽町となった。
摺鉢山は標高708m。
昭和2年(1927)には金鉱1,000tを産出して注目された。
開発の当初は摺鉢山山頂付近の表土を露天採掘していた。
付近にはRC製の遺構があり、これは
共栄(生田原)鉱山青化製錬所
の一部だ。
昭和14年(1939)完成、50t/日処理が可能だった。
ただしAu150g/t程度の高品位鉱は、秋田県鹿角の小坂鉱山に売鉱した。
共栄鉱山に対し山頂付近に昭和鉱山は存在した。
中腹付近は八重牧場という
農協 生田原支所所有の大規模草地公共牧場となっている。
共栄鉱山の鉱床図を参考に、かなりの標高まで登ってから入山する。
当初は山頂付近の露天掘りだったが、
石英の細脈の発見後、坑道探鉱が行われ中切坑が採掘される。
昭和4年(1929)には、中切坑の30m下に第7号坑、
第6号坑下12mに第9号坑を掘削し、
それぞれ187m.100mほど掘進したようだ。
谷のように一筋に崩潰した表土部分がある。
100m以上にわたって崩れる一帯は、
恐らく旧坑道の成れの果てであろう。
上部から確認できる坑道も珍しい。
昭和6年(1931)には鉱業権者が個人に移り、かつての坑道を再採掘
約200t/月、Au20g/t,Ag10g/tを出鉱した。
更に奥地で坑口の発見だ。
ただし昭和鉱山ではなく共栄鉱山時代の坑口かも知れない。
朝日一坑、日吉坑、吉光坑と16か所の坑口が共栄鉱山の資料にはある。
ザイルを張って慎重に坑口へ下る。
昭和9年(1934)の日本鑛業會誌によると、
本坑は三坑を探鉱し15mから90mに達し平均品位20gとある。
坑道には支保工が残り、水蒸気が吹き上がり風がある。
しかし内部は急角度に下っており、
崩れ方が激しい。
更に山中に分け入る。
昭和8年(1933)からは数本の鉱脈が発見され、
かつての坑道から堀下を採掘、下部へと坑道は掘進する。
以降の粗鉱品位は5〜40g/tで、昭和10年(1935)までに坑道の掘進はさらに進む。
昭和13年(1938)には企業による経営に移り、標高700m付近に新たに通洞坑が掘削される。
その後も小坂製錬所への送鉱は継続される。
写真では非常に分かりにくいが人工的な基台の跡だ。
索道での搬出が記録にあるので、
その始点か中継地のようだ。
マウスon 土台
こちらは平場と斜面が数段繰り返すさらに人工的な光景だ。
製錬所が存在していてもおかしくない状況だ。
更に探索してみよう。
斜面にはコンクリート製の遺構が現れた。
これは昭和4年(1929)に建造された青化製錬所の廃祉だ。
小鉱山の気勢の象徴、シアンを用いた製錬施設だ。
ここでは鉱石を砕いて泥状化、青酸物と混合して2昼夜反応、
ガス除けの石灰で中和させ、その後亜鉛を投入して、
金合金を析出させる。
この青化製錬所は昭和4年から6年のたった2年間の稼働だ。
小坂鉱山に売鉱が始まるや否や
閉鎖されたということになる。
金鉱の生産量に関しては『本邦鉱業の趨勢』によると、
昭和2年に1.388t、昭和4年 2.410t 昭和7年には2.212t 昭和9年以降は1t台と、
青化製錬所稼働時期に生産量が増加しているものの、その後減少している。
当時の金の価格高騰は重工業の活気とともに鉱業の好調に結びついた。
それは企業家の注目に値し、新鉱床の開発、廃山の復活、金鉱氾濫に結び付く。
自社製錬の不足分は売鉱や貯鉱となった。
また金鉱処理の問題として、当時の浮遊選鉱技術不足が大きかった。
財閥系の大型製錬所は技術革新とともにその選鉱量も拡充し、
小鉱山での自社製錬の効率の悪さが露見する結果となる。
昭和6年当時、品位低下による採掘量の増大や、
それに伴う処理鉱量の増大に対応するため、
自社製錬の退歩が著しかったのかもしれない。
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