上生鉱山跡 探検: 北の細道 矢矧鉱山

矢矧鉱山で金から銅に旋廻する




北海道遠軽町生田原

 金・銀・銅、これらは紀元前から人類と出会い、
金属の中でも色調を持ち、その輝きは富豪の象徴とされてきた。
融点(溶ける温度)はそれぞれ1,000℃前後と金属にしては低く、
伸びが良くて加工がしやすい。

そしてその希少性が価値を高め、それぞれが地殻に含まれる濃度は、
金が0.0011ppm、銀が0.07ppm、銅が55ppmとなり、
一般的な鉄の濃度の4万1000ppmと比較しても歴然である。
ppmは「parts per million(パーツ・パー・ミリオン)」の略で、
「100万分の1」という『割合』を表す。
つまり1%…1万ppm、0.0001%…1ppmとなる。

金はある程度の大きさの純金だけが金色で、光の透過により青や緑、赤に変化する。
そして自然界に純金というものはなく、多少の銀や銅と結びついた合金となっている。
特に銀が20%以上含まれた金を『エレクトラム』と呼ぶ。

このように純粋な金は地中に存在しないためしばしば間違いが起こる。
自然金と見た目が似た物質は黄鉄鉱(FeS2) や、
黄銅鉱(CuFeS2)で金色にキラキラ光るものがすべて金ではない。

金銀銅が同鉱床で産出し、色での見分けが付きにくいため、
ある鉱山では銅鉱石としてロシアに安価で売鉱していた鉱石が、
実は金鉱が混在しており、散在しているそれら金粒を黄銅鉱だと勘違いしていたという逸話もある。


矢矧(やはぎ)鉱山は昭和8年(1933)露頭が発見され、
坑道探鉱により三条の金細脈に至り、翌年から採鉱された。
昭和12年(1937)には『二木鉱業 上生鉱山』として本格経営に入る。
月産20t程度の出鉱をみたが、その後『内外商会 矢矧鉱山』として経営され、
昭和17年(1942)には『東邦採鉱株式会社 矢矧鉱山』として稼働する。
金山整備法以後は金鉱として事業を縮小、銅鉱山として再生の道をたどるが、
昭和29年(1954)をもって閉山した。


金鉱として繁栄したのは浦島内川南方の大切鉱区、
銅鉱床として後半に栄えた中部の辰巳鉱床、西部の大成鉱床の三か所に分散した鉱区であるが、
今回は銅鉱時代の鉱区を歩いてみる。



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大切鉱
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