築別炭鉱 ベルト大斜坑連絡坑道跡  探検: 北の細道 築別炭鉱 ベルト大斜坑連絡坑道

ベルト大斜坑連絡坑道、頓挫した期待の星




北海道羽幌町

    羽幌炭鉱が 本格的に企業経営されたのは昭和6年(1931)以降である。
太平洋戦争を経て、昭和23年(1948)に策定された『出炭五か年計画』により、
築別鉱業所 から独立、これは本坑が創業期から躍進期に転換する事業計画であった。

戦後荒廃した日本経済の立て直しのため、基幹産業である炭鉱業は手厚く国から資材・資金が投入された。
その中で大増産と合理化、新鉱開発を軸に索道、選炭機の新設・巻上機、圧縮機の充実・炭住の建設等、
5年間で羽幌鉱業所に至っては出炭量を28,894t/年から150,000t/年へと5倍、
築別鉱業所においては110,000t/年から170,000t/年と1.5倍の増産を予定した計画であった。

『出炭五か年計画』の最終年度、昭和28年(1953)は
年産総計317,790tと目標の32万tの目標をほぼ達成することとなり、
しかしながら重油の配給制撤廃によるエネルギー革命が並行して進行、
国内炭の高騰から石炭産業の不況が加速することとなる。

その後、『石炭鉱業合理化臨時措置法』の施行により、非能率炭鉱の整理が推進される中、
築別坑の深部区域採炭、羽幌坑の骨格坑道となる 運搬立坑 が『第二次五か年計画』として予定される。

エネルギー革命の進行とともに石炭産業の斜陽化が加速する昭和36年(1961)、
永年の目標であった年産101万6000tの実績を記録することとなる。
200人を超える離職者がある中、国の石炭政策を背景に、
深部採炭への移行の要『ベルト大斜坑』の開削が着工されたのが昭和38年(1963)、
しかしながら、地質条件の悪化を理由に工事半ばで中止されたのは2年後のことであった。


今回の探索は建設途中で頓挫した斜坑の、その連絡坑道の成れの果てである。
昭和45年11月の閉山、その後半に棄てられた斜坑。
坑内の遺構を探索してみよう。






コンクリートブロック・汚泥・レール・・・



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( ̄u ̄;)坑道跡





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