羽幌は百万トンのヤマ


坑口へは沢を横切って到達する。
沢にも鉄材や鋼管が散乱している。
周辺にもはや道は無い。 沢


築別鉱業所ベルト大斜坑 連絡坑道である。
経営指針であった『増産によるコスト引き下げ策』、
その通過点として昭和38年に着工された坑口だ。 坑口


「パラペット」建物の外周部先端の立ち上がり部分 裏側には何もない。
「扁額」(=へんがく)門の入り口などに掲げる文字の書かれた額 部分は空洞で、
連絡坑道のような文字が掲げられていたのかもしれない。 坑口


坑道は一気に下っており、側壁からアーチ部分は、
石が弧状に積まれた迫持構造だ。
内部に進んでみる。 坑道


すぐに石積みの封鎖部分に土砂が堆積し、
夏までは氷が残る。
天井までは少しの隙間しかない。。 坑道


坑内には碍子が残存している。
第二次五か年計画(昭和32年)からベルト斜坑工事着工(昭和39年)の時期にかけて、
石炭のエネルギーシェア比は50.1%から30.1%に減少、石油シェア比は2倍強に増加している。 碍子


奥は鋼アーチ支保工の間から岩石が激しく崩れている。
ベルト斜坑着工直後、石炭鉱業調査団の答申による第二次石炭政策の実施年となり、
炭価の引下げや電力用炭価格の公定化などが実施、築別・羽幌の統合も計画された。 配管


支保工の間には木材が矢板代わりに設置してある。
石炭の消費産業は暖房(52%)、電力発電用(40%)、国鉄(6%)、工場(1%)と、
電力用が重油に移行する動向から、暖房用に活路を見出すしか策が無かった。 木製支保工


鋼アーチ支保工には岩石が辛うじて止まっている。
その後の第三次石炭政策は国内生産量5,000万t/年で維持することで、
赤字脱却そして安定化を目指す補助制度が盛り込まれ、
羽幌炭鉱も国の支援策に依存する状況となっていた。 支保工


坑口から100m程度で夥しい汚泥により埋没を迎える。
負債元利の補給など経理改善措置を骨子とした『石炭鉱業再建整備臨時措置法』が公布された昭和42年、
経営の安定化が図られた羽幌坑は皮肉にも出炭記録を更新する。 汚泥


最奥にレールが残存する。
既に国の石炭政策によってのみ経営を支える形となってしまった羽幌炭鉱では、
昭和43年(1968)に過去最大出炭113万3000tを記録することとなる。 レール


「なだらかな閉山・縮小」対策を特徴とする『第四次石炭政策』は昭和44年実施。
従業員の退職手当は100%国が保証という二年間の時限立法は、
資金不足のヤマを『駆け込み閉山』に向かわせたのかもしれない。 支保工





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