築別炭鉱跡 探検: 北の細道

羽幌炭鉱の白い巨塔を登遡る




北海道羽幌町
 苫前炭田は留萌炭田の北方50kmに位置し、
南北35km/東西15kmの一大向斜構造炭田を形成している。
明治21年に道庁技師による初調査が行われてから、明治・大正期に部分的に鉱区が設定され、
採炭も試みられたが失敗し、やがて第一次大戦末期の大正7年から財が投入され、
昭和14年から本格操業に至った。

採炭開始の当時は、石炭輸送のための鉄道敷設が重要事項であった。

 昭和7年、国鉄羽幌線は羽幌駅まで開通していたものの、
山間の採炭場所までは未開通であった。

そこで当時、鉄道省で予定していた名羽線(名寄-朱鞠内-羽幌)の建設促進運動を行ったが、
戦時下の資材不足は否めず、築別駅までの延長の許可が降りた後、
築別炭鉱までの延伸を含め、別途鉄道会社立ち上げのもと敷設に至った。

この鉄道敷設事業は時代背景からの鋼材不足という難問に行き当たり、
鉄道建設の主任技師たちは鋼材を入手するべく、遠く九州や四国方面にまで赴き、
路線改修での余剰スクラップ橋脚を入手し、旭川や苗穂まで送ったという。
その功績は現地廃線跡の繋いだブレードガーター橋に顕著に表れている。

 戦時体制下の混乱を逸脱した昭和24年、年産10万tを突破し、
その後重油の進出による石炭業界の不況にもかかわらず、
採炭の機械化・合理化はなお進み、昭和36年には待望の年産100万tを実現する。

但し、昭和25年には労働組合との交渉破談により全員入坑拒否という大規模ストライキに至る。
未払賃金の解決や大衆交渉・組合内部闘争・検挙などの紆余曲折を経て、
労使協調に至り、その後この問題は終息した。


今回は昭和36年まで増加の一途を辿っていた出炭量に陰りが見え、
エネルギー革命に伴う石炭業界全般的不況に加え、炭層悪化、坑内火災、労働力不足など
苦境に喘ぎながらもその設備が近代化された昭和40年当時の遺構を調査する。

特に今回制覇した羽幌本坑運搬竪抗は完成から閉山の昭和45年まで、
たった5年間の稼働である。


こうもり襲撃、腐食した鉄はしご、巨大巻き上げ機・・・




羽幌本坑 立坑跡
( ̄u ̄;)運搬立坑跡



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