空中索道と専用線跡
紅葉の徳舜別周辺。
付近には
白老硫黄鉱山、
南白老バライト鉱山、
白老鉱山と
鉱山が犇めいている。
現室蘭本線竹浦駅(旧敷生駅)から鉱山近隣の飛生部落まで6qは、
敷生鉱山鉄道専用線が敷設されていた。
廃線跡レポについては以下リンク参照
歩鉄の達人
毛敷生川の砂防ダムを渡る沈下橋だ。
集落のある海岸沿いから、
鉱山跡までは、ひたすら林道を登ることとなる。
植生の疎らな地帯もある。
鉱山から下流の軌道終点、飛生山元までは、
約5qの空中索道が設けられたという。
現フジ川は鉱山色の赤い川で、
当時は『赤川』と呼ばれていたようだ。
標高200m附近からさらに遡る。
林道脇の笹薮の一部が鉱山事務所跡だ。
大正時代の遺構ならではで、
遺構はおろか平場も石垣も無い。
崖の上は飯場跡だがここもなにも痕跡はない。
盛大に稼行が行われた大正4年(1915)は第一次大戦勃発により、
鉄の需要が大幅に増加した時期だった。
当時のものかは不明だが神社跡付近に残る茶碗の破片だ。
鉱層は1.6〜10m有り、
その上部が厚さ1.6〜3.0mの火山灰で覆われていた。
そして第一鉱床付近に到達した。
如何にもの岩盤には硫黄臭の水が流れている。
根曲り竹の群落に植生の無い一角は異様な光景だ。
11月の中旬でも流れる水は9.8℃とそこそこの温度があり、
どうやらここは冷泉のようだ。
更に第二・第四鉱床へ進んでみよう。
第三鉱床は沢沿いに岩盤が続く。
当時は採鉱夫数百人が従事し、
飯場には社宅が30ほど建設されていたらしい。
第二鉱床付近も痕跡はない。
付近には飲食店もあり、医師も一名従事していたという。
今は辛うじての平場が見受けられるだけだ。
第四鉱床の坑口に向かって沢を遡る。
下流の敷生駅周辺にも飲食店や接客業が5〜6軒でき、
接客婦も30名余り存在した。
赤川(フジ川)は最上流域に達し、
いよいよ沢も狭まってきた。
しかも岩礁は独特の色合いで、しかし滑ることは無い。
硫黄臭が激しくなると、
岩が苔で覆われてる一角に出る。
この左岸が第一号坑のようだ。
これはチャツボミゴケのようだ。
強酸性の温泉水の流れる場所を好んで育つ、
鉄鉱石鉱山にはゆかりのある苔だ。
その上部の斜面からは、大量の冷泉が噴出している。
どうやらここが埋没した坑口で、
地下の鉱泉が今なお噴出しているようだ。
噴出した鉱泉は下流でフジ川に合流する。
鉱山は終戦後の鉄価格の下落を背景に休山を迎え、
レールの撤去された軌道跡道路に残ったのは『終点』の地名だけとなった。
戻る