寿都鉱山跡  探検: 北の細道 寿都鉱山跡

寿都鉱山で退避坑に案内される




北海道寿都町

   大正9年開業の寿都鉄道は黒松内ー寿都間を結ぶわずか16.5kmの私鉄だ。
昭和43年頃に廃線となったが、その誘致は大正時代の不況を跳ねのける開拓精神に準じたものだった。
寿都では早くから函館ー小樽間の鉄道支線敷設を計画しており、
ことあるごとに関係機関へ設置運動を展開してきた。

しかし、当時盛況な鰊漁の漁場を縫う海岸線の敷設予定は、
轟音による鰊の接岸が望めなくなるとの理由で鰊業者による反対運動もあったという。


紆余曲折を経て開業した寿都鉄道の開通により街や営林署・新聞社を挙げての祝賀会が開催された。
しかし豪雪地帯の私鉄には除雪車もなく、吹雪や融雪・増水のたびにトラブルが連続する。

当時「ガンガンしょい」と呼ばれるブリキ缶を背負った女性客の乗車がよく見られた。
これは寿都で獲れた魚介をブリキ缶に入れて小樽方面等に売りに行き、
帰路は都会の雑貨を買って帰り、寿都で販売したその光景だそうだ。

明治20年頃に寿都町内で試掘された「廣尾鉱山」は大正3年に企業化され、
やがて昭和21年に財閥所有の「寿都鉱山」として稼働に至る。

この原鉱は大金精錬所に送られ青化澱物に精製されて、
湯別駅から細倉・豊浦精錬所に輸送した。
この業務に寿都鉄道は特定貨物運送事業の認可を受けて一貫輸送を担っていた。


寿都鉱山はほかの鉱山と異なり、その鉱区が街に近く、
それに沿う 「乾式精錬」炉で鉱石を燃焼溶融、目的の金属を得る。煤煙が発生 による鉱害で、漁業と町民生活に悪影響が発生し大問題となる。
煤煙によりカラマツは立ち枯れ、昼夜関係なくその臭気がひどかったようだ。

昭和に入り財閥経営時代に入ると、精錬所の稼働は停止する。
しかしながら今度は 「鉱滓」(こうさい)鉱石精錬後の残カス、ズリ・カラミ石 と坑内水から発生する強酸性の廃水が流出し、これにより漁港や岩礁が赤く変色する。


最盛期の社員は約140名、二交代勤務で電気・水道・石炭と言った福利厚生は
すべて会社が負担し、鉱山神社の祭りも盛況、労働組合等も充実していたらしい。
また、下川鉱山対寿都鉱山の野球大会なども開催され、
勝ったほうが鉱山野球の東京大会に進出できたようだ。

しかし昭和35年(1960)貿易自由化に伴う、資源産業の合理化が唱えられ、
コストに打ち勝つ生産性の向上、輸入品に対抗できる合理化が推奨されるが、
中小鉱山にとっては廃止への秒読みであり、寿都鉱山においても、
鉱量の減少とともに、地質調査によっても良い結果は得られず、
昭和37年(1962)9月閉山を迎える。


今回は付近の古老から多くのエピソードを聞くことができ、
気づかない遺構にも説明を頂けた素晴らしい機会だった。












立坑・火薬庫・退避坑・・・



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( ̄u ̄;)カタクリ





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