鉱山跡の勿忘草
明治22年当時の寿都の鰊漁は盛況で、全漁獲金額の94%を占め、町予算の15倍の金額となる。
現在では総漁獲金額は町予算の1/5程度で、鰊は昭和初期で占める割合は激減したまま推移している。
澄んだブルーの寿都漁港は、かつての鉱害を全く感じさせない。
漁港から約700mほど登ると、土場があり開けた空き地がある。
すぐに
「RC」(reinforced concrete)鉄筋コンクリート
製の廃祉がある。
大正時代の精錬所に伴う施設だろうか。
更に廃墟は広がる。
街の反対意見を考慮せずに、高さ45mの煙突や精錬窯を海路輸送したにもかかわらず、
第一次大戦の影響で機器入手が滞り、精錬所新設は見送られることとなる。
昭和に入った鉱山ではpH2.7の強酸性水が流出し、
漁港の木造船は害虫駆除剤を塗布しなくても、
虫が寄り付かなかったという。
付近には立坑が存在したらしい。
深さ40mの坑道は炭酸ガスと強酸性水が堆積し、
ポンプの腐食が激しく2日程度でポンプの取り換えを行うこともあったそうだ。
古地図によると付近には手押しの鉱山軌道が敷設されてたようだ。
本坑は武田鉱山(明治期)⇒広尾鉱山(大正初)⇒寿都鉱山(昭和25〜)と改名し、
昭和20年(1945)に戦争が終わり、財閥解体後新会社の管理下となる。
少し移動し、民家の脇を抜けたところで古老に会う。
この窪地は坑道が陥没した跡で、かつては矢追、南は寿都神社、東は漁港付近まで
縦横に坑道採掘が進んでいたという。
これはかつての立坑の跡で、第一立坑・第二立坑・新栄立坑が存在した。
この第二立坑だけに巻上機が存在し、
第一立坑が非常用、新栄立坑は小さな巻上機で荷物用だったらしい。
ここも埋没した坑口の一部だそうだ。
水平坑道を一般に上から一番坑、二番坑と呼びその間隔は本坑のような小鉱山で30m。
寿都鉱山は16番坑まで存在したので最下層は地下480mということになる。
沢沿いに登坂する。
坑内はダイナマイトを用いて掘削し、
粉塵はコンプレサーにて除去したという。
少し上るとやがて斜面に鋼板製の扉で封鎖された坑口に至る。
ここは火薬庫で厳重な扉は開かない。
内部は枝分かれしているらしいが、数十年入坑は無いそうだ。
更に登ると砂防ダムがある。
勤務は朝8時〜15時の一番方と15時半〜23時の二交替であったそうだ。
ここまで登ると遺構はなく、旧地図の坑口を求めて更に登る。
そして斜面に鋼管が残る。
後の資料にて閉山にあたって坑道は埋められ封鎖されたとのことであった。
砂と水を流し込み、役場が密封したらしい。
山中に遺構は残存しない。
昭和28年(1953)に寿都鉱山文化会館という270人収容の集会場が完成した。
人気映画の上映やクリスマスパーティーが盛況に開催されたが、やがてそこでは閉山式が挙行された。
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