下川鉱山跡  探検: 北の細道 下川鉱山跡

下川鉱山で2.3kmの通洞を見る




北海道下川町

  坑内採掘に伴って発生する水を坑内水という。 
その供給源は、地表の雨や雪を源とし坑内に侵入する水、
岩床水、化石水のように雨水と関係なく地下に埋蔵されている水、
河川・湖沼・海洋のような地表の水源から供給される水、
坑内用水のように人為的に供給される水などがある。

坑内水は災害の原因となる採掘の不要物であり、坑内水没の恐れもある。
排水技術が確立されていない時代は、水没による良質の鉱石の放棄も発生したようだ。

かつては立坑で革袋にて揚水したり、木製の筒にスパイラル軸を設けたアルキメデススクリュー
のようなポンプも実用化されたという。

今日では横坑で開坑し、坑口レベル以上の開発に伴う坑内水は通洞へ集水し自然排水する。
坑口地並以下のものは坑内最深部等に設けた水溜(=パック)に集め、
既定の水位以上になるとタービンポンプ等で揚水する。

坑内水の性質は鉱山の種類によって異なり、特に本坑のように硫化物を産出する鉱山では、
強酸性で重金属イオンを溶解している場合が多い。
地表へ揚水した坑内水は中和させ、重金属を回収、土砂などを沈殿させ、
排水基準に適合する水質としてから、公共水域に放流する。


昭和6年(1933)、パンケ(落合沢)でたまたま発見された転石の鑑定が鉱山の発端となる。
昭和16年(1941)には財閥による契約となり、合宿所・鍛冶場・事務所等が整備される。
その後ペンケ(新下川)側の開発も進み、昭和18年(1943)には落合沢-新下川間の架空索道も完成する。

ペンケ(新下川)側には選鉱所・大煙突・新立坑などが建設されるに至る。
火災や熊退治が重なる中、集落は下川に36戸、ペンケ(新下川)14戸、パンケ(落合沢)30戸となる。

しかしながら、 「ペンケ/パンケ」アイヌ語で川上/川下の意 間は山越え(アリラン峠)で、
積雪期の通勤は一列になり、胸までの積雪を掻いての行進だったという。

戦後のインフレ後、銅精鉱が活発となり、ペンケ(新下川)-下川間の軌道も敷設される。
郵便局の設置、5〜7回/月の巡回映画上映、昭和24年(1949)には399坪の新選鉱所完成。

その後、念願のペンケ〜パンケ間 「通洞」山腹からほぼ水平に掘削した運搬排水通気目的の坑道 も開通する。
昭和30年(1955)には硫化鉄の製錬を含め、月産8,000tの操業が軌道に乗る。
続いて長期発展を見通し、寒冷地住宅の建設10年計画が施工される。

しかしながら、昭和32年(1957)以降のなべ底景気、昭和38年(1963)銅貿易自由化の余波に耐え、
やがて昭和49年(1974)には従業員580人と生産のピークを迎えるが、
環境問題、円高による輸入銅に押され、昭和57年(1982)採掘を中止、閉山となる。



現在も鉱水処理が行われている関係上、外観からの探索となった。


下川鉱山 下川鉱山

選鉱所・坑口・放水隧道・・・


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