(写真は左から「春駒」詩碑・「牛」詩碑・「荻原守衛」詩碑)
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私の暗愚小伝 1 −風立ちぬ−
   
昭和14年2月、南国の和歌山もさすがに厳寒の早朝であったという。苦労して和歌山商工会議所理事にまで登りつめた祖父の代よりの商家の次男としてこの世に生を受けた。
   昭和16年、太平洋戦争の勃発で一家は戦争の渦に巻き込まれたが、幸いにして父は徴兵されず、和歌山市の大半を焼き尽くした戦火から逃れて、家族は高野山の山奥に、私だけは紀ノ川の上流のかつらぎ町大谷に避難していた伯母の元に預けられた。一年強の田舎生活の後、終戦を迎えた。店は全焼し財産の大半を失ったが、父はバラック建の店舗を再開、力強く混乱に立ち向かった。
   小学校、中学校、高校と順調に進学、両親の庇護のもと、病弱ではあったが幸せに幼年期から青年期へ成長した。恩師の指導と病床での読書が文学への眼を開き、中学時代から始めた卓球と初恋が青春を彩った。
   昭和32年、大阪大学経済学部へ進学。迷わず独立して下宿生活を選んだ。下宿先は大阪・豊中市の住宅街の開発がまだ及ばない農家の納屋の奥に作った貧弱な四畳半。卓球と読書とアルバイト・・そして適当に経済学。安保とは無縁に青春を謳歌した。
   昭和36年、大学を卒業。この年就任したケネディほど自信はなかったが、颯爽と化学会社に入社し上京した。
   家内も同期に入社した。長年一緒に歩いて来たのに家内の青春以前のことは詳しくない。
昭和15年12月、中国・済南で4人兄弟の長女として生まれた。義父は国鉄職員で中国に渡り、国鉄の子会社・済南鉄道に奉職していた。昭和20年の敗戦は過酷な運命をもたらした。命からがら引揚げて静岡富士市の郊外、富士山麓の伯母の家に避難生活を送り、上京後は苦労して小さな会社を経営するに至った父に従って、三鷹・西荻窪に住んで小学校、中学校を卒業した。青山学院大学高等部に進学、同校の短大英文科を卒業した。就職は当時の女子大生憧れの丸の内に在ったチッソを選んだ。
   キューピットが二人を近づけたようだが無論二人ともその存在を知らなかった。

   時代は戦後の混乱から見事に立ち直り、好況と不況を繰り返しながら高度成長時代に入って行った。
化学産業が石油化学に急展開する中で、昭和38年、最初の試練がやってきた。
環境変化に上手く対応出来ず、虫垂炎の手術・大腸閉塞手術と連続して手術を受けた。「かくは悲しく生きん世に 汝がこころ/ かたくなにしてあらしめな・・・
」と中原中也の詩句をお守りに、大勢の人々に助けられて何とか復帰した。
   キューピットが姿を現し恋に落ちた。病は急速に進行した。小さな旅の途上ケネディ大統領の暗殺のニュースに驚き、「智恵子抄」が旅の記念となった。
   昭和39年11月3日。国中が東京オリンピックに沸いた夏の残光の中、開通したばかりの東海道新幹線に乗って花嫁たちは式場の大阪・宝塚ホテルに到着し、花婿もまた和歌山からホテルの洋食は初めてという祖父母を先頭に宝塚を目指した。演出は二人で、費用は両親で・・と恵まれた門出であった。
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