詩「秋の祈」

秋は喨喨(りょうりょう)と空に鳴り
空は水色、鳥が飛び
魂いななき
清浄の水こころに流れ
こころ眼をあけ
童子となる・・・・



t.03.10.08.作.「道程」最終詩。「ここには湿った感傷はない。魂のめざめ、生の喜びへの開眼がある。全編生き生きとした言葉で充たされ、一語が次の一語を呼び快いリズムが脈打っている」と詩人の伊藤信吉が評した詩の冒頭だが、結婚披露宴を間近に控えた清々しい気分に溢れた詩。光太郎と智恵子も訪れた上高地を訪れる度に口ずさみたくなる詩である。写真は河童橋からの穂高連峰
詩「狂奔する牛」

・・・・
今日はもう止しませう、
画きかけてゐたあの穂高の三角の尾根に
もうテル・ヴェルトの雲が出ました。
槍の氷を溶かして來る
あのセルリアンの梓川に
もう山山がかぶさりましたo
谷の白楊が遠く風になびいてゐます。
今日はもう画くのを止して
この人跡絶えた神苑をけがさぬほどに
叉好きな焚火をしませう。
天然がきれいに掃き清めたこの苔の上に
あなたもしづかにおすわりなさい。
・・・



t.02上高地滞在時の思い出が12年後に結晶した作品である。梓川の河原で初老の夫妻がイーゼルを立てていたので思わずこの詩飾ろうとパチリ。この詩を読んで初めて光太郎の時代には上高地の一帯が放牧場であったことを知った。
詩「おそれ」                     

いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない
一滴の水の微顫(びせん)も
無益な千万の波動をつひやすのだ
水の静けさを貴んで
静寂の価(あたひ)を量らなければいけない・・・




m.45.08作.。智恵子と知り合って未だ間もない頃の作品。智恵子へのいたわり、思いやり、二人の愛の情景の詩だが上高地の明神池のこの写真が似合う。


光太郎と智恵子の東京の旧居

敷地は40坪弱の二人の愛の巣。
写真(借物)の左側が焼失前。屋根裏部屋を持つ当時としては超モダンな建築。赤レンガ敷きの玄関、一階の大部分は二階までの吹き抜けのアトリエで光太郎の仕事場。智恵子は二階の一室で絵を描いた。
写真の右側が平成11年の現況で駐車場になっている。電柱脇には光太郎の略歴を記した案内板が建っている。
セームス坂病院と高村家奥津城

左側の写真(借物)は智恵子が入院治療し、息を引取った品川・大井町の病院の入口。戦災で焼失し、現在はアパートが建っているが、一画には智恵子抄の白眉の一編「レモン哀歌」の詩碑がある。

右側の写真は巣鴨・染井霊園にある「高村家」の 奥津城。父・光雲が建てた墓碑には光雲他13名の法名が刻まれいる。無論、智恵子も光太郎の名もある。
「葱(ねぎ)」詩碑

立川の友達から届いた葱は
長さ二尺の白根を横へて
ぐっすりとアトリエに寝込んでいる
三多摩平野をかけめぐる
風の申し子、冬の精鋭。
俵を敷いた大胆不敵な葱を見ると
ちきしゃう、
造形なんて影がうすいぞ。
友がくれた一束の葱に
俺が感謝するのはその抽象無視だ。



 t.14年作。東京・立川市富士見町の東京農業試験場・みどりの第一展示園のヒマラヤ杉の根元にある。智恵子が親交を持った佐藤元試験場長夫人から送られた葱を題材にした短詩だが、食事もままならぬ生活の中で「葱」という平凡な食材にまで「造型」を感じるほど彫刻に打ち込んでいた光太郎の姿が浮かぶ。
                                             
私の智恵子抄文学散歩 上高地・東京編