「結婚のご挨拶」
新婚旅行は南九州が相場であったが、私の好みで信州を選んだ。野尻湖・赤倉高原・美ケ原を巡り、憧れの上高地に足を伸ばした。是非とも光太郎と智恵子が新しい歩みを決意した場所に・・・と言うのが私の希望であった。二人が歩いて超えた徳本峠越えにはバスが開通していたが雪山装備の登山客で一杯だった。河童橋畔の白樺荘は冬籠に入る直前で、上高地の鮮烈な寒さが二人を包んだ。見上げる穂高連峰は雪で覆われていた。
「冬よ/僕に来い 僕に来い/僕は冬の力 冬は僕の餌食だ」(詩「冬が来た」)と意気軒昂であった。
「私の智恵子抄」は周囲の祝福を受け、東京の大井町のおんぼろ社宅で幕を開けた。社宅は奇しくも智恵子が永眠したゼームス坂病院と大井町駅を挟んで南北に位置していた。
第二章 新しい道 (t.3−s.5)
大正2年10月、智恵子との結婚を決意した光太郎は詩集「道程」を世に問うた。
あの有名な詩句「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る・・・」を巻頭に置いたこの詩集の出版は二人して歩む「新しい道」への華々しい出発宣言であった。
婚姻届さえ出さず、人間のあるべき姿を追い求める二人ではあったが披露宴だけは開いた。その日の上野・精養軒は冬には珍しい嵐に見舞われ、二人の厳しい前途を予感させた。
当時としては超モダンでイギリス風のアトリエでの二人の共棲が始まった。一階のアトリエで光太郎が鑿を振い、二階の一室で智恵子が油絵と格闘する。食事さえも惜しんで新しい道を探る毎日であった。がむしゃらに勉強を続けたが、作品は生活の糧を稼ぐには程遠く「私たちの最後が餓死であろうといふ予言は/しとしとと雪の上に降る霙まじりの夜の雨の言った事です」(詩「夜の二人」)と経済的には困窮を極めた。父の仕事の下請けと若者達を熱狂させたロダンやロマン・ロラン翻訳で飢えを凌いだ。
関東大震災、光太郎の母・わかの永眠、智恵子の度重なる病気、智恵子の父の永眠とそれを契機にした実家の破産・・・。二人を取り巻く環境が激変する中で光太郎は彫刻、詩、翻訳に後世に残る傑作を物にしたが、智恵子は闇の中をさまようばかりであった。そして迎えた昭和6年、智恵子の運命は暗転する。
この時期の光太郎を三つの詩碑で紹介したい。
「道程」詩碑。
先に記した二人の出発宣言の詩を刻んだ碑は四基ある。以下の写真で紹介したのが愛知県岡崎市甲山中学校の校庭にある、詩の冒頭二行を彫った碑、その傍らには全文9行を彫った碑と二基並んでいる。何れも昭和57年度の卒業生の記念建碑である。更に、長野県北佐久郡御代田町(軽井沢町隣)の御代田中学校には、珍しく「道程」の発表当時の100行の終末部分を彫った詩碑(未見)、智恵子の生家の裏山の「樹下の二人」詩碑への途上にも詩の冒頭二行を彫ったオブジェ風のものがある。
光太郎の詩は「志」である。生きる決意の表明である。それまでの日本に詩には無かった新鮮さを持っている。旧来の詩語を棄て、日常の言葉(といっても明治の人だから難しい漢語が多い)に己の志を充電して表現する。そのため説教臭い詩だと反撥を招くことも少なくないが、私も含め愛読者も多い。
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