明治44年の暮、25歳の長沼智恵子はコバルトブルーのマントに身を包み光太郎のアトリエを訪れた。光太郎の友人・柳敬助夫人で智恵子の日本女子大での先輩・八重が二人を引き合わせた。「ひどく優雅で無口であった智恵子」(「智恵子の半生」)は、精神の危機にあった光太郎を救い出した。
父・光雲から物心両面での自立を目指し、長男としての財産相続を放棄して弟・豊周に譲り、背水の陣を敷いた。最後の支援に建ててもらったアトリエで、血を吐く思い、火のような願いで歩み始めた。
翌、明治45年6月(明治が大正に変る最後の月)、自ら設計した黒塗りの風変りな新築アトリエに真っ赤な花弁のグロキシニアの大鉢を持って智恵子が訪ねて来た。その夏、写生旅行の銚子・犬吠埼での偶然の?再会。大正2年夏の信州・上高地での2ヶ月。二人は急速に魅かれ合い、愛を結晶させた。
二人して新時代を築こうと結婚を決意したのは山を降りた大正2年9月。第一次大戦前夜で、光太郎30歳、智恵子27歳の時であった。
この時期の光太郎を三つの詩碑で紹介したい。
一つ目は「春駒」の詩碑。
「新詩社」時代から親交を結んだ歌人・水野柴舟を千葉に訪ね、三里塚御料牧場に遊んだ時の詩「春駒」を刻んだ詩碑である。牧場は現在、成田空港の滑走路下に消えたが、成田市・三里塚記念公園の迎賓館庭に建っている詩碑の碑面には「・・・/かすむ地平にきらきらするのは/尾をふりみだして又駆ける/あの栗毛の三歳だろう/のびやかな、素直な、うひうひしい/高らかにも荒っぽい/三里塚の春は大きいよ」と光太郎の青春時代に相応しい詩が刻まれている。
二つ目は「牛」の詩碑。
光太郎にとってロダンとの出会いは単に近代彫刻との遭遇に留まらず、彼の生き方そのものを変えさせるほど強烈であった。ロダンはたぐいまれな才能を持ちながら前半生は不遇であった。だが、ロダンは真直ぐに、愚痴もこぼさず己の才能を磨き、開花させた。「鈍(のろ)いということは、一つの美です」とロダンは語る。光太郎は新しい道を歩む指針にこの言葉を選び、それを牛に託した。
花巻市石神町の旧雪印乳業の工場に「牛」の詩碑が建っている。訪れた時には工場は成分偽装事件のために閉鎖に追い込まれ、製品配送センターになっていた。往時の築山が無残に残り、松の枝が覆いかぶさっていたものの、主を失っても碑はなお愚直に生きつづけていた。「牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く・・・」で始まる長詩の最終部分の「・・・/牛はのろのろと歩く/牛は大地をふみしめて歩く/牛は平凡な大地を歩く」が記されていた。日本に近代彫刻をもたらし、藤村から白秋に至る抒情詩の系譜から離れ、独自の詩境を切り拓いた厖大なエネルギーを思い起こさせる碑である。
三つ目は「荻原守衛」詩碑。
近代彫刻を共に目指した盟友・荻原守衛のあまりに若い死は光太郎に強い衝撃を与えた。
信州・安曇野の碌山(守衛の雅号)美術館裏庭には詩「荻原守衛」が刻まれた簡素な詩碑がそっと置かれている。碑面には「単純な子供荻原守衛の世界観がそこにあった/坑夫、文覚、トルソ、胸像/ひとなつこい子供荻原守衛の「かあさん」がそこに居た/・・・/四月の夜ふけに肺がやぶけた/新宿中村屋の奥の壁をまっ赤にして/荻原守衛は血の塊りを一升はいた/彫刻家はさうして死んだ――日本の底で」とある。同じ様に「日本の底」で蠢く光太郎の悲痛な呟きが聞えて来る。 美術館の直ぐ隣は日本一贅沢な穂高中学校である。広い芝生の前庭には荻原守衛の代表作の彫刻が座り、光太郎の字で「坑夫」と銘が打たれている。直ぐ横には尾崎喜八の「田舎のモーツアルト」の詩碑が建ち、目を上げれば雪を戴く常念岳の雄姿が何時も生徒達を見守っている。
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