パリ・ロダン美術館

ここは元ビロン元帥の邸宅で、ロダンがアトリエとして借用使用した。現在はロダン美術館として公開されている。写真はその前庭で、右手の彫刻は「考える人」、左手背後はナポレオンの眠る「アンバリッド」。光太郎はこのアトリエを訪れているがロダンには逢えなかった。光太郎の詩「後庭のロダン」で紹介しよう。



ああ、たとえばこれだな、
あの木の腕がこちらへねぢれる、
アンヴァリイドの屋根が向うに見える、
午後の日がふかぶかと斜めにさす、
雀が二羽。
・・・・・・・

悪魔に盗まれさうなこの幸福を
明日の朝まで何処に埋めて置こう。
身のやり場がないので、
ただじっと、 ロダンは石のベンチにかけてゐた
「水盤がいつしらず空になるやうに」
巴里の冬の日が音も無く蒸留する。
・・・・
たそがれ時のオテルビロンの階段を
両手をうしろにして庭から昇る彼の顔に
ああ何といふ素朴な飛躍。



写真は美術館の後庭。筆者もパリを訪れるたびに何度も訪れた美しい庭を持つ美術館。きっと貴方も、光太郎の「悪魔に盗まれさうなこの幸福を 明日の朝まで何処に埋めて置こう」と心が豊に満たされます。
ノートルダム寺院 前景と薔薇窓

おう又吹きつのるあめかぜ
外套の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら
あなたを見上げてゐるのはわたしです
毎日一度はきっとここへ来るわたしです
あの日本人です・・・



連日ここに通いつめた光太郎の「雨にうたるるカテドラル」は全105行に、主題の全身的感動を詠い上げる。賛歌であると同時に、全力で西欧と格闘する姿をを示した詩的交響曲である。
南北両側の大きな「薔薇窓」と呼ばれるステンドグラスは訪れた人を圧倒する。
私が光太郎の詩を片手に初めて対面した時の雪崩打つ感動、信者でもないのに母を追悼したひととき・・・この大聖堂には私のパリが詰まっている。
光太郎のアトリエ(右手のビルで路地の右側1階)

モンパルナスの駅からヴァバンの交差点に向かい、右折、一つ目の左手の通りが、「カンパーニュ・プルミエール街」。渡仏した日本の画家・文学者が数多く住んだ街である。17番地のアパルトマンが光太郎の借りたアトリエ。梅原龍三郎が光太郎を訪ねてきて同居。光太郎帰国後、梅原が継いだ。同じ場所には当時ロダンの秘書をしていたR・M・リルケが下宿していたのでロダンやヴェルレーヌも再三来訪した。が、光太郎はそのことを知らなかった。ボードレーヌやヴェルレーヌの詩に感動していたから、これらの人々との出会いが実現していたらどんな展開になったことだろうか。14番地にはA・ランボオが住み、有島生馬や辻邦生の下宿も近い。
ヴァバンの交差点には「ドーム」「ラ・ロトンド」など著名なカフェが立ち並ぶ。藤田嗣治、ユトリロ、ピカソ・・・などが常連でモンパルナスが輝いていた頃であった。
モンパルナス大通
  ロマン・ロラン旧居


光太郎がパリを歩き回っていた頃、ロランはこのアパルトマンの一室で代表作「ジャン・クリストフ」に取り組んでいた。
パリでロランを学んだ光太郎はその精神に感動し帰国後のその部分翻訳を発表した。

「ジャン・クリスフ」は私が青春時代に大きな影響を受けた本であった。親友から贈られた英語版の本をテキストに英語の勉強をした思い出が残る。
佐伯祐三のパリ

カンパーニュ・プルミエール街27番地のアパルトマンの扉は佐伯祐三(1898−1928)の最後を飾る「扉」(1928年制作)のモデルである。写真はその絵(左)と実物(右)の扉ですが、色は塗り替えられていたものの健在。30歳の画家はこの「扉」で生涯を閉じた。
パリに学び、パリを愛し、パリに逝き、今もパリに眠る氏の作品には、パリを歩くといたる所で出会えます。
因みに、藤田嗣治のアトリエはこの扉の斜め前のアパルトマンにあった。
                                   
私の智恵子抄文学散歩 パリ編